再びながら休みの報告をさせていただきます。 <m(__)m>
6月13日(月曜)~15日(水曜)
以上の3日間を休みとさせていただきます。
日曜には長男坊の学校で発表会があり、月曜日が振り替え休日となるのでそれにさらに2日間の休みを無理やりにくっつけて休ませ再び Ca Naのリゾートホテル Hon Co Resort へ行ってこようと。
ここは改めて本当に居心地のよいリゾートホテルと思い、なんとかまた行きたいと思いつつこのときに行くことにする。
何度もここに書いた通り長男坊の成績などというものに関してはまったく気にしていない。
参政党のよしりんが言っていたように、今の教育は戦後のGHQによる教育を改ざんさせられている教育であるため勉強すればするほど今どきのエリート日本人となってゆくという。
自分自身も高校卒業後宅浪そして一年後に受験挫折後にフラフラしながら最後に海外旅行にでも行ってから就職を探そうと思って調べているとワーキングホリデーというビザがあるということを知ってそれを目標とする。
そうしてフリーターとなってお金を貯めてからオーストラリアへと行ったのだが、今思っても本当になにかに取りつかれているのではなかろうかと思えるほどなにか運から見放された生活を一年間過ごした。
今考えてみると
日本列島から日本人が消える日
を読んでみてから思えることは、まさしく毎日のように“なにかついていないよなぁ~‥‥‥おかしいほどついてないよなぁ~‥‥‥なんなんだよぉ~
チッキショー‥‥‥
などなどと心の中でいつもいつも愚痴ってばかりいて、まさしく負の連鎖が始めって自分でそういった不運な状態を引き寄せていたような‥‥‥今ではそんな気もする。
そうしてこのまま帰ってたまるかとピッキングで会った人に聞いていたニュージーランドへキウイピッキングへと3ヶ月程向かった。
そうしたらもう始まっていると聞いていたキウイはまだ始まっておらず、毎週もう少し待て!!を繰り返され結局二月近く待たされ、持っていた現金がほぼ底をつき、そしてまたその後で取り戻しもう最後にカードで借金をしてタイ経由にて少しだけ遊んで帰ろうということにした。
そうしたらタイに着いた翌日に女二人組に騙されて現金全てを失い、その1週間後にダメ押しのごとくカード賭博詐欺というものに出会ってしまう。
そうして失意のどん底の状態で成田に着くと持っていた最後のなけなしのタイのお金が日本円へ換金できないということになる。
まぁ結局は当時自分の兄が仕事が終わってから迎えに来てもらうということになって帰ることができた。
そうしてそうしてそれからは借金を返すために自動車の期間工へと契約社員として働く。
そうして半年ちょいほど働いて、借金を返してから再びのリベンジ旅行を達成するためにそのままフリーターとなるという。
そうしてタイで買った一年オープンのチケットにてリベンジ旅行へ一年後再びバックパッカーとして今度はアジアのタイを中心に10ヶ月ちょいほどを旅して日本に戻ってきた。
そして再びそのままフリーターとなってしまったのだが、今でこそ本当に色々と経験をしておいてよかったと思える。
今となってはなにをやったか記憶も薄いが、レストランなどで皿洗いのバイトだけだとしてもこの店を立ち上げるときには役立っていたと思える。
そうして25歳になったときに自分の一番上の兄に
「お前もいい加減にフラフラしていないで、せめて一度くらい言うことを聞いて紹介したところで働いてみろ!!」
と渋々ながらもその紹介された建築系の仕事で働き始めた。
そうして働きながらも年に一度くらいはベトナムのホーチミンに短期旅行などをし続けていたものであった。
そうしてベトナムにこだわろうと決めて、仕事でも建築系の仕事で海外の仕事があるということを知ってからそちらを目指す。
そうして兄に紹介された家族経営の小さな建築設備の会社に3年近くほどして、少しなにか嫌気感のようなものを感じているときに当時の転職雑誌Beingにてまさしくこれからベトナムのハノイにて現場が始まるという切り抜きを見つける。
これは‥‥このタイミングでこの広告はもう自分のために出されたものではなかろうか‥‥‥
と半分以上そう思えながら面接に行くと自分でも不思議なほどその社長から気に入られるという。
まぁこのことは以前に書いたが、それにしてもこのときのこの会社の社長ほど灰汁の強い人物もいなかろうと今でも思えるか。
そうしてその会社に転職すると全く思ってもいなかったのに1・2ヶ月後にはベトナム勤務となるという。
https://ameblo.jp/shikayoshi-2019/entry-12477403345.html?frm=theme
このときのこともワーホリ以来のかなりの試練であったかと思える。
まぁ今でこそ本当にあのときあのなにもない1996・7年のときにハノイに働きに行ってよかったと思えるいい経験であった。
そうして2年ほどをハノイで働き日本帰国後に約一年その会社で働いた後にこの会社を辞めるためにも目標を作る。
その会社に居続けていたら絶対に確実に後悔する!!
ということがなにかわかりきっていたので、ただ嫌だから辞めるというのもなんだから目標を作ってそのためにも辞める。
ということを無理やりに決める。
ここまで本気で思わせてくれる会社もそうそうないかと思える。
実際数年後にベトナムから帰ってきて仲のよかった元社員と話すと
「Shikaさんが辞めて、数年後にはもう常務も含めて本当みんな辞めていったから、円満退社をしたのはShikaさんくらいじゃないかな?」
などなどと言っていたのを聞いて本当やっぱり正しかった!!と再認識させられたものであった。
そうしてその目標とはベトナム語を真剣に真面目に生まれて初めて集中して勉強した一年後に現地採用で工事現場の仕事を探す!!
などということを本当無理くりに決めてまずは半年をハノイで勉強し、残り半年をホーチミンに移動して勉強しながら現地採用を探す。
ということを決めて実行に移した。
このときもうすぐ31となろうというときであったので気持ちはかなり崖っぷちである。
そうして結果は1年後に挫折してカンボジア・タイへと陸路で移動して少し観光してから日本に帰国をする。
しかもこのときにはHCMの娘に失恋というおまけつきであった。
しかもしかもさらに帰国後にこの振られた娘に色々と相談頼られ、自分は試されているのか本当に振られているのかとワケが分からなくなってしまい4・5年ほども振り回され最後の最後にまたまたダメ押しの失恋を突き付けられるというオマケつきであった。
そうして日本では派遣会社にて今まで体験していなかった大きな建築現場へと派遣されたのだが、このときの経験も本当によかったと思えるか。
小さな会社だけではなく、大きな会社との社員さんの考え方の違いというようなものがすごく感じられた。
そうして4・5年ほどを日本で安アパート一人暮らしをしながら働いていたものであった。
そうしてその後半のほうにこのまま派遣会社に言われるがままに働いているとこのまま独身でおっちゃんになってしまうな‥‥‥
という危機感を感じ、とにかく場所を変えないといかん!!
ということで別の派遣会社に連絡をとって海外の案件はないかと聞くと巡り巡ってベトナムのハノイとなる。
そうしてその同じ派遣先会社でハノイ→ダナン→ホーチミンとなりイェン委員長さんと出会ってド素人未経験のカレーやになったという‥‥‥‥
まぁ若いときには色々と挫折を繰り返したが、今となっては経験かな??
と思えるので、自分の子どもたちには自分の頭で考えて選んで楽しんでいってほしいと思えるか。
騙されるということのくやしさを若いときに経験をし、そうして歴史をしってくると
なんだ?日本人全員が騙されていたんじゃないか!
ということに何年も前に気が付いた。
しかもみんなそれに気が付いてすらいない。
30数年前の自分と同じじゃないか!!
と思っていたら、それを街頭演説で毎日のようにまさしく命をかけて演説している参政党の姿を毎日今はユーチューブで観ている。
世界が変わるとしたら本当にここからくらいからしか希望がないのではなかろうか‥‥‥‥
休みの報告が長くなってしまった。
Curry Shka よろしくお願いいたします。 <m(__)m>