ROCK’IN ON JAPAN Vol.213 2001年12月号
【スガシカオという表現者の実像に迫る決定版的インタヴュー。その飄々とした佇まいと軽快な語り口の奥底に広がる、彼の表現者としての揺ぎ無い意志を、あなたにも感じて欲しい。【スガシカオ20000字インタヴューより高校時代について】
●地獄の浪人時代から大学生になったわけですが。
スガ「大学では適当にチャラいサークルに入って、浪人時代に失われたものを、青春を取り戻そうと思って・・・スキー部に入ったんですけど結構練習がガンガンあって厳しくて・・それはそれで楽しかったんですけど(笑)で、とにかく金貯めて1人暮らししたいというのもあったからとにかくアルバイトして。楽しいはずのものを取り戻そうみたいなのはすごいあったかもしれないですね」
●大学時代はどんな生活でしたか?
スガ「大学の時はバンドとクラブ活動、半分半分ぐらいでしたね。音楽も凄い幅広く手ぇ出してたんで。8ミリ映画のサントラもやったりとか、あとバンドも色んな楽器で、いろんなとこお手伝いとか行ったりして。町内会のジャズバンドみたいなやつとかまで」
●その頃、自分で詞を書いたりとかはしてたんですか?
スガ「いや、全然ですね。その頃は唄ってる人がそれぞれだいたい作るし、自分で書きたいとも全然思わなかったですね。だからもうバンド活動自体が楽しい、趣味なんですよね。だから一生やりたいなぁってくらいで、プロになるとかそういうつもりも全然なくて」
●じゃあ、4年になって普通に就職しようか、みたいな?
スガ「うん、そうですね。とにかく食ってく金を自分で早く稼がなきゃっていう、割と現実的な発想で。まぁ家訓ですからね(笑)」
●はははは、じゃあ、仕事選びのポイントは何だったんですか?
スガ「まぁ、なんでもちまちま作ったりするのが好きだったから、なんかクリエイティブ職にはつきたいなと思ってた。そんなんなら、何でもいいやって。で、企画制作の会社に入って。クリエイティブがやりたくて入ったんですけど、いきなりアイドルの付き人とかやらされたりして(笑)」
●どんな会社だったんですか?
スガ「普通の会社だったんですけど、新規の事業をやる部署だったんですよ。アイドル歌手の付き人とか、長崎の造船所で働いたりとか、あと、競馬場でも働いてたりとかしてたなぁ(笑)」
●その間も音楽は続けてたんですか?
スガ「そうですね、その頃はもうファンクバンドをやってたんで、だからもうブラックミュージックしか聴いてなかった」
●歌詞を自分で書き始めたっていうのはいつ頃なんですか?
スガ「社会人になってからですね。働き始めて一年目くらいの時に、自分たちのオリジナルをやろう、ちゃんとした曲をやろうっていう話になって。『じゃあ、俺曲書くわ』ってそんな感じで書き始めて一番最初に作ったのが“ココニイルコト”と”愛について”でしたね。意味がある言葉でファンクをやりたいっていうのが最初からあったんですよ。日本ってそういうの誰もちゃんとやってなかったので。ちゃんと歌詞の意味があってファンキーなものをやりたかったんですよ。
でもね…・ちょうどその時、フライング・キッズがデビューしたんですよね。それで僕は完全に音楽をやめたんですよ。もう、全く同じことをやろうと思ってたんですよ、初期のフライング・キッズと。
ああもうこれは、勝てんと。それまでプロになろうとか積極的に考えてた訳ではないけど、やっぱりちょっとはあるわけじゃないですか、音楽やってると。その時、もう何もかも、やられちゃった感じがして打ち砕かれてしまったんです」
●一度打ち砕かれながらも辞めなかったのは何故ですか?
スガ「丁度、その時、仕事がむっちゃ忙しくなってきて、もう音楽どころじゃなくなってきて。で、その後、急に詞や曲が書けるようになってきたんです。
それはたぶん、自分で金稼いで、生活していくことで、自分が責任を持って言えることと、言えないことというのがはっきりわかってきたと思うんですよね。だから、親の金で暮らしてるうちはさあ、偉そうなこと言ったって、『お前、親の金で暮らしてんじゃん』って言われちゃうと、何も言えないと思うんですよ。すごいロックなこと言ってたとしても、親の金の世話になってんじゃんとか言われたらもう、それでおしまいなんだと。だから、やっぱ自分の金で生き始めると、言えることがたくさんある・・・っていうふうになってきたのかな。
詞を書き始めた頃に気づいたんですけど、僕の中で思い出みたいなものが、、ちょっと他の人とは違う形で取り込まれてる感じは凄いするんです。普通は、ボヤーンとした『こんなことあったよね』みたいな感じだと思うんですけど、僕の場合それがものすごくはっきりした1枚の写真になってて。そこに匂いとか、空気とか、天気とか、もうすぐ雨が降る感じとかがものすごく細かく刻み込まれてるんですよ。
小学校の時にさ、母親の友人の家に行ったんですよ。その家が離婚騒動で揉めてて、すごい気まずい空気だったんですけど。その帰り道、赤坂の歩道橋の上を歩いてる時の1枚の写真というのに、その時の空気の重さとか、気まずさとか、ものすごい刻み込まれているんですよ。他にもそういうのがいっぱいあって、詞を書くときのきっかけって絶対そこなんですよ。それこそ、夜空ノムコウの公園のフェンスのところもやはりそういう1枚の写真があって、・・・それはまぁ浪人時代の女の子とのあれなんですけど(笑)
その写真から、ストーリーは全然違うんですけど、同じ匂いのするものを辿って行って、お話しを作っていってる感じなんですよね。だから思い出が物語になってるんじゃなくて、むしろ断片の光景みたいなものがすごいあるんだよなあ。
で、ある日、突然『俺はプロになるぞ』って会社を辞めちゃうんですよ。」
●その頃にそうやって曲がどんどん書けるようになって、一度は諦めたはずなのに何故その時そう思ったんでしょうか?
スガ「もうねぇ、そん時はねぇ、今でもはっきり覚えてるんだけど、ものすごい自信があったんだよ。誰もやってないこの音楽を、日本の音楽業界が放っとくわけないと、勝手に思ってたのね。そいで、何も決まってないのにいきなし会社辞めちゃって、すごい自信だったんだよ、当時は。いま考えるとちょっと恐ろしいんだけどさ(笑)
春には係長にとか言われてたりもしたんですけど全然関係なかったんですよ。さてどこのレコード会社にしようかなぐらいの悩みしかないですよ(笑)
あの時になんで迷うことなくそれが出来たのか、自分でもよくわからないんですよね。何かの力にぐーっと引っ張られて、勝手に色んなもん捨てて、デビューできるかもって1人で自信もってて(笑)まあ不可解っちゃ不可解なんですけど、なんかこう“呼ばれる”感じがすごいしたんですよ。」