「スガシカオは、1996年、所属事務所オフィスオーガスタに持込を続けながら、習志野にある一軒家で制作を続けていたさなか、父親が病に倒れた。
それによって昼間は父親の代理で営業回りを余儀なくされ、深夜帰宅後制作を続ける日々が続いた。オーガスタにスーツ姿で現れることもあり、当時の状況を知るスタッフは「デビューに関する計画の見直し」さえ考えていたと言う。
金銭的にも「飯が食えなくて、胃薬をかけて白飯を食べた事もあった」くらいに追い込まれ、契約前にもかかわらずオーガスタから多額の借金をすることになる。」
(2000年2月発売“スガシカオ1095”インタビューを元にした本文より)
デビューした後、2002年彼の父親が亡くなるまでスガシカオさんが父親の治療費の為に、仕事をしている姿を見せる為に、何度も夜中に倒れ救急病院に運ばれながらも必死で働いてきた。
「おれとヤグルトさん(母親)にしてみれば「緩和ケア病棟」なんて都合のいい呼び方はあれども、当の患者側にしてみれば「死に待ち」という言葉に他ならないのだろう。
父は生きる可能性(治療)をやめて、「死に待ち」することはできないと、おれたちに言った。
それでも何度かの医師やヤグルトさんの説得によって、父はそれをしぶしぶ承諾した。
というか、もう承諾するしか行く道がなかった。
そんな選択をするしかなかった父へのはなむけに、おれは一番高額で一番広い特等個室を用意した。
ヤグルトさんがいつでも泊まれるように、宿泊可能な広い部屋を用意してもらった。
おれの中では、これは親孝行ではない。
むしろ死に立ち向かう父の気持ちに対する、精一杯のおれからの餞別だった。
戦場に行く仲間に渡す、お守りのようなものだった。
おれはもう、それこそがむしゃらに働いた。」
(2011年夏スガシカオさんのブログにて期間限定で公開されていたケータイ小説より抜粋)
人生の師は?との問いに、迷わず「父親」と答えるシカオさんです。