もっぱら紙の人です。お風呂で読むときのみデジタルの人です。紙で読み進めると深く潜っていくような感覚に陥ります。喫茶店のガヤガヤした雑音がすっと遠くに消えて、本の中の人の感情や目線が私の中に侵食してくるのです。ただそれでも思考は一直線ではありません。最近では女性についての本を読む機会が増えたので自らの過去の風景を思い出して心をかき乱したり、目をそらしていた事実を提示され疑問が湯水のように湧き出たり、たしかに本を読んではいるのですが書かれている事と並走するように私の思考はあちらこちらに迷い出すのです。だから私にとって読書は逃避なんです。

 

「理解をする」という言葉をよく聞きますが、実際にはどこまで理解すれば良いのでしょうか。あの国の宗教のこと、その国の人種のこと、この国の誰も言わないこと。こんなに忙しい毎日ですもの、そんなにたくさん理解できるとは思えません。誰かが大切だと思っている事も誰かにとっては気にする必要のない事。優先順位を決めるのは自分しかいないはずです。自分を理解をしてほしいと求める人ほど他人を理解してはいないのは何故ですかね。優しい人は理解をしている人ではなく、目線を置き換える事ができる人だと思っています。そう、紙で本を読むあのときのように。

 

私が書いた文章はデジタルで届けられています。その画面の周りには時計があり、メッセージの受信のお知らせがあり、今日の予定が表示され、最新のニュースが通知されている。目線は文字を追っていても、優先順位はきっと低いでしょう。深く潜ることもなく、文字の上を駆け抜けているだけ。でも、それでいいです。それがいいです。だってこれは一時の逃避なんですから。