「嫌われる勇気」は、アドラー心理学について哲人と青年が議論している形で書かれてある。アドラー心理学では、目的論について記載されている。読み進めているうちに目的論について納得がいくようになってきた。

 私の場合で言うと、1歳の娘が絶賛偏食時期で何なら食べてくれるのか、悩んでいた。今までの考えだと、一生懸命作った料理を食べてくれなかった→栄養の偏りが心配だし、作ったのに食べてくれなくてショックだったという過去の経験から今の悩みが作られているという原因論であった。目的論では、娘が偏食でご飯を食べてくれないという悩みから、私にとって都合の良い目的は、「偏食だから、料理のメニューの偏りは仕方ない。料理のメニューは決まったものでよい。」である。悩んでいるように見えて、料理のメニューを考えなくて済むという自分にとっての都合の良いことが裏側に隠れているのである。

 この本にも赤面症の女の話が書かれてある。「赤面症が治ったら、好きな男性に告白する。」という赤面症へのコンプレックスによって相手に自分の好きという思いを伝えられないという悩みであった。これを目的論に置き換えると、彼女は、「赤面症」というコンプレックスを盾に、1番恐れている「男性にふられる」という現実から逃げているということになる。自分にとって赤面症は、告白しない都合の良い理由なのである。この話から、アドラーの考えが分かるようになってきた。今まで読んだ本とは違い、対話方式から学んでいくことに違和感を持ち、読書量が少なかった時期は、この本が読めなかったが、今は読書量も増え、抵抗なく読めるようになった。自己成長を感じられた本でもあった。

 他にも「課題の分離」についてよくある事例があげられていた。子どもがなかなか勉強しない。親はどうにか勉強させたくて「勉強しなさい!」と躍起になるという事例である。教員時代よく聞く話であった。その問題についてアドラーは、子どもが勉強するしないは「子どもの課題」であり、親には関係ないというのだ。そして、「他人の課題に踏み込んではいけない。」と書かれてある。この話は今までの学びと繋がっていることに気づいた。宿題をしないという悩みをよく聞くが、「宿題しなさい!」ということは、まったくもって無意味な行為であると考える。その場合、子どもには「宿題はなぜしなければいけないと思う?」とオープンクエスチョンで質問をして、勉強する意義を伝える。そして、母は子どもが勉強しなくても全く困らない。でも勉強をすると未来の選択肢が増えて、子どもにとって良い未来が待っているかもしれない。だから、宿題をしてほしいというアイメッセージとして伝えるのだ。これから私が、勉強しない問題にぶち当たった時、息子には勉強する意義を伝えよう。そして、勉強する楽しさを伝えられる種まきをしていこう。それが親としてしてあげられることの1つだと決心した。

  この本には、幸せになる勇気には、嫌われる勇気が必要であると書かれている。私は、旦那が留守の間息子や娘2人を1人で見ていることに対して、「こんなに大変な中育児も家事もやっているのに、なんで旦那は…。」と不満に感じることが多々あった。「これだけ尽くしているのだから、相手に自分に対してもっと感謝してくれなきゃ割に合わない」という他者の課題に踏み込んでいる考えと言える。私が「相手に嫌われたくない」というのは、自分の課題で会って、「私を嫌うかどうか」は他者の課題である。10人のうち、自分のことを好きな人間が2人、嫌いな人が1人、そうでない人が7人だと聞いたことがある。私がいくら「嫌われたくない」と頑張ったところで、嫌いな1人を変えることは難しいだろう。それは「他者の課題」であるからである。だから、必要以上に人に好かれようとしなくても良いというどちらでも良いと思えることが「嫌われる勇気」につながるのかと考えた。

  近年自己肯定感を高める育児についてよく聞く。この本の哲人は、自己肯定感とはできもしないのに「わたしはできる」「わたしは強い」と、自ら暗示をかけることと書かれている。私の思う自己肯定感とは、自分のことを好きでいることだと思っていたが、少し哲人の考えとはズレが生じている。私自身自己肯定感が低いと感じていたが、まさに「わたしならできる」と暗示をかけていることが多く、哲人の考え方だと自己肯定感が高いとなるのだろうか。哲人は言う。自己肯定ではなく自己受容が大切なのであると。自己受容とは、仮にできないとしてもその「できない自分」をありのままに受け入れで、出来るように前に進んでいくことだと語られている。最近学んだパーソナル子育て基礎講座では、9歳より前に他者視点が身についてしまうと自分の軸が身につかないとされている。できないところもあるし、できるところもある。そんな自分でもいいんじゃないと思えることが9歳までは特に必要なのだとする。私は、9歳より前に自己受容できなかったから、今まで自分のマイナスに目を向けてしまっていたのだろうか。日本人はマイナスに目を向けて、マイナスをどのように改善するか考える文化がある。私も間違えなく日本人だったのだ。

 33歳の私でも自己受容できるようになるには、「肯定的なあきらめ」が必要なのだと哲人は言う。「肯定的なあきらめ」とは「変えられるもの」と「変えられないもの」を見極めることであるという。短所に目を向けがちになってしまうが、子どもも私もこの「肯定的あきらめ」を身に付けることが大切なのだ。私は忘れっぽいところがある。先週も娘の習い事を連れていくのを忘れて、自分にげんなりしてしまった。哲人のいう「肯定的なあきらめ」という考え方をすると、「変えられないもの」は、私の短所である忘れっぽいということ、「変えられるもの」は、忘れないための対策をすることである。忘れないためにアレクサのカレンダーに予定を入れること、携帯を肩掛けにして予定の30分前にリマインダーをすることを行った。この考えをするだけで短所に向けがちだった私の思考が少し変わった。

 アドラーは、「他者に貢献するのだ」という導きの星さえ見失わなければ、迷うことはないし、なにをしてもいい。嫌われる人には嫌われ、自由に生きてかまわないという。10人のうち1人は自分のことを何をしても嫌うのであれば、アドラーの他者貢献の考え方で、「嫌われる勇気」をもって生きた方が清々しい。

 この本は、私にはとても難しく文章がまとまっていないが、これから繰り返し読んで理解できる場所が増えていけるといいと思う。

 

参考資料:嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え | 岸見 一郎, 古賀 史健 |本 | 通販 | Amazon