昨年末の話になるのですが、いつもお世話になっている方の舞台を観にいきました。その舞台ももちろん素晴らしかったのですが、最後、楽屋挨拶をさせて頂いた時に「そういえばこの方とは“今度飲みに行きましょうよ”とは一回もお互いに言い合ったことがないな」と思ったのです。
そもそも、僕はお酒が全然飲めないので「飲みに行く」という文化があんまりないのですが、たまに友人とウーロン茶とかコーヒーを飲みに行ったりします。
もちろん、それはそれでとても楽しいのです。
でも、自分が大人になって良かったことのひとつに、
「友達なんだけど、相手に関する細かい情報をほとんど知らない」
という関係が増えてきたことがあるのです。
そういう人とは年に数回かしか会わなかったりするのですが、逆にそういう関係が居心地が良かったりすることにも気づいたのです。
僕も、その人達も、そんなに頻繁には会わない。
でも、お互いの仕事については見ている。
そういう友人関係はすごく有難いと思ったのです。
もちろん、これが20代だった時の自分だったら少し寂しく感じたと思います。
その頃の「友達」の定義は、一緒にいる時間が長くて、気が合って、なんでも話し合えて、バカ話もできるという関係がメインだったから。
でも、歳を取った自分の友人関係は、ちょっとあえて実利的な書き方をするのですが
「この人が見ていてくれると、自分のパフォーマンスが上がる」
というものなのです。
つまり、仕事でも、表現でも、生き方でも
「この人に好きでいてもらえるためには、下手なことはできないわな」
とか、後は、相手の活動が自分にとってすごく刺激になってくれる。
「なんでも知っている」じゃなくて「ほとんどなんにも知らない」という関係性。
その人が生きてさえいてくれたらそれで良いというのは、それは多分「友人」とか「友達」という関係性でしかできない貴重な関係性だよなと改めて思いました。
ただ、そういう貴重な関係は誰とでも築けるかというと、そこにはやはりある条件が出てくると思います。
センスとか、気が合うとか、後はなんだ、肩書きとか相手の社会的ポジションとかか。そういうことももちろん大事なのかも知れません。
でも、そんなことよりも、長続きしている友人関係は
「何を恥ずかしいと思うかが一緒の人が友人関係になれるんじゃないか」
とお世話になっている人がウーロン茶を飲みながら言っていたのですが、そういうことがすごく大事になります。
「何をしないか」、「何を恥ずかしいと思うか」とか、そういう品性の部分はすごく大事だと思います。
「うわ、この人こんなことやっちゃう人なのか」
と品性を疑ったら、ちょっとその人に近づくことは難しくなってしまう。
そうです。人間関係は時にシビアなのです。
「この人は○○をしない」
というのは、相手の信用にすごく関わる大事なポイントになってくれる。
最後になりましたが、今年もどうぞよろしくお願いします。
ウーロン茶を飲む関係も、ウーロン茶を飲みにいかない関係も、どっちとも好きです。