先日、ほぼ日の糸井重里さんとの対談をもう一度読み直していたら
糸井:何かで読んだのが、しいたけ.さんはコミュニケーションを「他の人のやりかたを見て覚えた」という。
しいたけ.:はい。ぼくは高校生くらいのとき、まったく会話ができなかったんです。何を喋ればいいのか分からなくて、「ふつうに話せばいい」と言われても、その「ふつう」が分からない。だから急に「ウンコ!」とか叫んで全部を壊したくなる、そんな感じでした。それで休みの日に公園とかに行って、カップルの隣りに座って、こっそり会話を聞いては、内容をノートにつけてたんです。
の話がいまだにずっと色々な人に好いてもらっている話みたいで、すごくありがたいです。
自分が普通にやっていたことが、大人になって色々な人に「面白い」って言ってもらえる話って、「その当時の自分」としては実は別に何の価値も見出してなかったりする。
僕は本当に、10代から20代の後半まで、他人とまともに話せなかったところがあります。
友達もいなかったし、ずっと暇だったから、ライフワークとして休日ノートを持ってベンチに座っていたのです。すごいですよね。怖いですよね。
それで、「普通の会話」というものを学びたくて、カップルの話を書き写して、夜自分の部屋に帰って畳を相手に練習をしていたんです。「そのソフトクリームどう?おいしい?」とか。畳は基本、無言でした。
その「休日ベンチ→部屋の畳」のライフワークを16歳から26歳ぐらいまでの10年間やり続けていった時に(もうさすがに20代になるとたまにしかやらなかったけど)、カップルとか、普通の人の会話、上司と部下との会話、権力を持った女子グループのリーダーと気弱な女子との会話とか、そこで話される言葉よりも「間」の方に興味が湧いてきました。自分が苦手な人から言われた言葉とかでも、後で思い出して自分でノートに書いてみると、そこでまた違った見方が出てきたりもしたのです。
人が自分で話そうとする会話は音楽みたいで、みんな自分の得意のリズムを持っている。
次から次へと誰かの悪口を言うけど、それがすごく良いテンポやリズムになっている人がいる。同じように、誰かの悪口を言っていても、それを聴く人を自分の地下帝国に連れていくような重力を持った人のテンポやリズムもある。
「そのアイスおいしい?」と隣に座っている人に問いかける人でも、実はその「軽さ」こそが深い愛情であったりする。
自分が「話すのが苦手」という人は、自分が憧れる人とか、「この人の話し方が気持ち良い」という人を、何人か録画してコピーすると、その何人かの成分が「自分のリズム」になっていくような気がします。
誰かと無理に、「その人のリズムに合わせよう」とコミュニケーションを頑張るんじゃなくて、自分だけの世界で消化するコミュニケーションも僕は大事なんじゃないと思います。