少し前なのですが、三宅香帆さんの『文芸オタクの私が教える バズる文章教室』(サンクチュアリ出版、2019年)にこのブログからの文章を取り上げて下さったみたいで、読んでみてすごく面白かったです。
著者の三宅香帆さんの見方ってすごく勉強になって、他の著者の方の文節とか文章のリズムとか、言い回しとか、そういうものがきちんと考察されてあって、自分もそうやって分析されていて光栄でした。
ちなみに、僕の「文章の書き方」の代表として、約1年前に行った名越康文先生の広島の合宿の報告のブログが取り上げられていました。あー、確かに「合宿ってポロリが多いんですよね」って書きました(笑)
その時のブログ→合宿とポロリ
文章とか表現って何なんでしょうね。
僕は自分自身の表現として、「あんまりキャラを入れない」というルールを持っていると思います。
僕個人の考えなのですが、文章とか表現って、何割かは「見てくれそうな人、つまりお客さん」に伝えているものだと思うのだけど、残りの大部分、誰に伝えようとしているかというと、多分それは「自分」なんですよね。
ほら、たとえば他人に向かって「これからも頑張ります!」と言うことも「あなたのことが好きです」と宣言することも、そういうのって相手に伝えることによって「自分に宣言している」という側面がすごくあるのです。
自分が喋る言葉、書く文章、表現する世界って、けっこう「自分」に向かって言っている。
で、その場合、「どの自分に言っているか」というのが、僕は大事だと考えています。
「やぁ、こんにちは。しいたけ.です。今日はですね、暑いですね。そういえば最近ですね、嫌なこと多いですね~」
と喋ったとしますよね。
そしたら、これは僕の中で「正直」じゃないんです。
どこか「イライラしているワシ」を演じているじゃないですか。盛っているじゃないですか。
僕が生きる上で「ちょっと戦闘力高めのキャラで行って、乗り切るぞ」っていう感覚が、上記の言葉の中にはある。
そういうのって、それを読む人や、接した人が触れた時に「あ、この人裸じゃない」とかなり微細なレベルで引っ掛かるような気がするのです。
「強気キャラ」とか「キラキラ輝くキャラ」って、それはもちろんたまに演じるのは必要だと思うのです。
でも、24時間そういうキャラをやっていると、そこに触れる人達ってどこかゲンナリしてくるっていうか。だって、キャラって「自分が楽しかったり、自分の不安を解消したり、自分を納得させるためにやっている膜」みたいになって堆積しちゃうから、そこに触れた人って、呼吸が少し浅くなる。少し苦しくなる。だってその人がかわいい人って「自分」なんだもん。
キャラの話はまたどこかでしたいです。とりあえず。ありがとうございました。
今日久しぶりに「やることがない休日」をやっていてめちゃくちゃ幸せです。こうやってブログも書けるし。喫茶店にでも行こうかな。