前回の「願い事はかなうのか②」の方の最後で
「願い事って、具体的な回答を出すことが大事なんじゃなくて、願い事の方から好かれるためにどういう人間であるかを自らに問い続ける」
ことなんじゃないかと思っています。
と書いたのですが、この③ではそこに至るまでの経緯と、喫茶店ベローチェに集まって「それぞれが将来の欲望とか叶えたいことを書く」ベローチェノートが登場します。
※ 前回ヴェローチェと書きましたが、正しくはベローチェでした
当時、引き寄せの法則とかそういうスピリチュアルな考え方が社会的にも流行って、僕らの仲間内でも「タダで、思っただけで願い事が叶うのならばやらない手はない」と、かなりよこしまな考え方を持った友達が5人集まりました。
それで、本を参考書にして
「どうしたら運に味方されて、願い事が叶うのか」
ということを徹底的にベローチェとか、他は居酒屋とかで話し合いました。
まだ僕らは20代の前半で、そういうわけのわからない議論をずっとし続けられる好奇心と体力と、後、暇だったんです。
それで、多分、第一の条件として
・「叶えたいことは具体的に文字化しなければならないだろう」
というのは全会一致で決まりました。
友達のひとりが言いました。
「私が神社の神様だとするじゃん?そしたら、急によくわからない人がきて『たかし君とのこと、よろしくお願いします』とだけ言われてもねぇ、どこをどう味方すれば良いかわからないじゃん?」
と。
このように、ベローチェ会議は「自分が神様の立場になって、すごいクソ忙しい業務の中で、『あなた面白いですね』と誰を抜擢し、誰をサポートしたいか」という、かなり主観的な考え方で進んでいきました。
議論が進んでいった頃に、ベローチェ会のリーダー格であるNさんがこう言いました。
「私はね、願い事を叶えるって、私たちが弟子の立場として、どれだけ師匠にかわいがられるかだと思っているのよ。私は今仕事以外で習い事しているんだけどね、有名な先生ともなれば、やっぱり常に忙しいわけ。その師匠の目にとまるためには、全然レベルは違うけど、師匠と同じ景色を見ようとして、そして、師匠を恐れずに、師匠が聞いて欲しいであろう質問をすることだと思うのよ。『おー、あなたそれ聞く?」っていう。逆に、変に連帯意識を持って、師匠が眠くなるような質問をするのは良くないわね」
と。
それを言い換えれば次のようになります。ちょっと大事な箇所になるのでコーヒーでも飲みながらお読みください。
自分が居酒屋のマスターだったら
「まかないで作って、すごくおいしいけどメニューには載っていない特別なから揚げをどの客に出したいと思うか」
「これさ、まかないで作ったんだけど、もし良かったら食べない?」って。
多分、その当時も世の中的には「願い事の叶え方」って
「声を大きくして、自己主張を強くして、人よりも激しいことを言って、目立つこと」
の観点が多く語られていたと思います。
でも、僕らが話し合ったことって
「無関係な者とか事象同士が、どう惹かれ合い、結び付き合っていくか」
という点で、なぜか知らないけどずっと話し合ってきました。
店主から一番まかないのから揚げをもらえそうな席に座るとか。「これ、私ひとりでは食べきれないから」と、知らないおばあちゃんに高価なお赤飯をもらうとか。やっぱり、この歳になって「運が良い人」の話を聞くと、学生時代から居酒屋で知らないおっちゃんからご馳走されたりしているのです。
多分、今から考えても、この「願い事の叶え方の角度」って大きく本質を外していないと思います。
何かを受け取る立場に行く。
それは、自推で行けるところから、他推、つまり、誰かから「あの人面白いよ」と言われる立場に行かなければいけないから。
自己主張と「自分推薦」が激しい人が抱える諸刃の剣って、はじめは確かに注目を集める。でも、自分の推薦が出来る人って、その時点でもう「自分流」が完成されてしまっている。だから、その人を使う立場とか、推薦する立場の人が「この人はちょっと面倒くさいな」とちょっと思ってしまう。
願い事の叶え方って、「完成された自分」がそのまま次のステップに行くのではなくて、完成されていない自分が、次の出会いに行く時に、自分でも知らなかった自分になっていくことなんじゃないか。
願い事が叶っていく時って、やっぱり「大変だったけど、面白かった」という感想がふと出てしまう。
予測ができなくて、想像ができない世界に行くために、誰かから「やってみなよ」と言ってもらえる人って、どっかの居酒屋で店主から余ったから揚げをもらってる人です。
謙遜が大きすぎて「いや、いいです」と断り過ぎてもいけないし、「やっとから揚げもってきたかよ」と傲慢な自己評価になり過ぎてもいけない。
店主が愛情を込めて作ったから揚げのおいしさをわかろうとすること。
そして、心から「これ、うまいっすね」と言えること。
それが僕がこれまで考えて、大切にしてきた「願い事のかなえかた」です。