昨日Twitterで仮想スナックで愚痴を吐くお勧めみたいなことをしたのですが

 

多分世の中には「愚痴を吐かない人」っていると思ったのです。

 

愚痴を吐くという行為が苦手な人は、これは僕の経験上なのですが、「誰かの弱さによって苦しめられたことがある人」になると思います。そういう人の心の中には「つべこべ言ってないでやれよ」という消化されなかった怒りが結構強く残っている。「許せない」という言葉が無意識の中で使い続けている口癖であったりもします。

 

たとえばなんですけど、誰か自分が信頼する人に「頑張る」と宣言されたのに、「やっぱりできなかった。ごめん」と謝られた時って、ちょっと「えー!? 」って思うでしょう? それが本当にできなかったことならしょうがないけど、「やっぱりこの人は“弱さ”という巣に帰っていっちゃう」みたいな感覚。

 

僕自身、かつて20代の頃は愚痴という行為自体嫌悪していたし、愚痴は絶対に人前で吐かないと決めていました。

 

だから別に昨日のTwitterも、今日のこのブログも「愚痴を吐きましょう」みたいな、全員にお勧めにするつもりはないです。

 

ただ、僕自身は今この年齢になってみて、ときどき「いやあ、参ったよ」と愚痴を吐く効用もあると考えてきています。

 

もちろん、ずっと愚痴を吐いている人って独特のすごいネガティブな雰囲気をまとってきちゃうから、どこかで頑張れるところと、頑張れないところを自分自身でも分けていかなければいけないとも思います。

 

愚痴を吐く効用。

 

それは自分自身の感情が「許せない」という怒りに傾いていくことを阻止して、そして、ネガティブなものを少しだけ流してチャンスを待つ方法

 

になります。

 

「いやあ、参ったよ」と言える人は、他人のミスや弱さを許せる人です。それは別に「なんでもかんでも許せ」という話ではもちろんなくて、「色々ありますよね」が20%ぐらい雰囲気でまとえてくるのです。そして、「チャンスを待つ」という意味に関しても愚痴を吐くことは大切な儀式になっていて、ひとつひとつのストレスに対して「絶対に許せん」と言って叩きつぶしていく人って、これも経験上の偏見なのですが、チャンスが「スッ」と来た時に、小さな波を叩きつぶし過ぎていて疲れて反応できないことが多かったりします。

 

「いやあ、参った」を言わない人を支える強さは「許せない」という気持ちです。

 

そして、その強さは「こんな自分自身は許せない」という気持ちにつながります。そうやって立っている人はすごいです。でも、強さの中に弱さをちゃんと隠さず持てる人って、なんていうか良い状態で長持ちできる気がするのですが、そういうことは長くなるので喫茶店かスナックで話したいですね。終わり。