昨日名越先生との対談のために都内のある場所へ向かいました。

 

そして、その対談のテーマがちょっと詳しくは今の段階では書けないのですが「運命」というものについてなのです。

 

だから、名越先生に会う前に「自分にとって運命ってなんだっけな」って考えながら歩きました。

 

すごくかいつまんで話すと、僕は運命って「半分は決められるけど、半分は宿命みたいに“逆らえない流れ”ってあるんじゃないか」と思っています。その詳しい内容はこの日の対談の出来上がりを楽しみにお待ち願いたいのですが

 

運命って半分は「あー、なんかこういうことなわけね」って、「多少自分がやりたいこととはちょっと違うなぁ」と思いながら厳(おごそ)かな気持ちで受け取ることっていくことも必要なのかも知れないと思ったのです。

 

たとえば野球をやっててグローブを構えて、「スパーン」って“ここ! ”ってボールを受け取るコースにあるんじゃなくて、ちょっと「スパーン! 」からズレるぐらいのところにくる球が運命みたいな。「え、これ? 」みたいなこともあると思うのです。

 

僕は自論として

 

「運命は半分は操作ができないものだけど、努力によって運命に愛されることはできる」

 

と思っていて、僕自身が20代の頃って、本当に色々なかった人間なのです。

 

でも、何もないからこそ「運命に愛されなきゃいけない」ってなぜか知らないけど思った。

 

その時僕はまだファミレスでバイトも入っていて、運命に愛されるためにお店と、お店にいる人たちと、そして中華料理を扱っていたお店だったからチャーハンを愛そうと思いました。

 

これは詳しくは対談で説明したのですが、運命って「あるものをバカみたいに愛する」と過剰なサービスをした時に、なんかそれは見返りを求めたり評価を求めたりではなくて「いや、好きでやってんだからやらして」っていう愛を込めた時に、どこかでその人の雰囲気になって身につくものだと思うのです。

 

これは大人になって、今の自分の立場になって気づいたことでもあるのですが、仕事って自分で作るものでもあるのだけど、任せられるものでもあるのです。「いや、何かあなただったらこういうことを頼みたいんだけど」と他人から渡されるものでもある。

 

じゃあ他人って「この人に託したい」ってどういうところで見ているかと言うと、「この人だったらバカみたいに渡されたものを大事にしてくれるんじゃないか」という、そういうよくわからない確信って持つと思うのです。

 

観葉植物の喉が渇かないように適度に水を与え続ける。自分の元にやってきたチャーハンをちゃんと愛情を込めて炒めて誰かに渡していく。そういう信用関係って、いつか「この人なら大丈夫」と誰かから応援される力の源になると思うのです。

 

運の力って、奇跡を受動的に待つ力ではなくて、細かくて、小さい信用関係を大事にして、そして「この人は大丈夫そう」といつか誰かから、そして何かから大きなプレゼントを渡されていくこと。そういう信用関係の元にあるものだと個人的には考えています。

 

「この人は大丈夫そう」っていうのはそれは恋愛においても関係していて、一回目のデートのときの「ご飯の食べ方」っておそらくお互いが「心地よくないか、心地よくないか」をすごく感じようとしている。その話はまた別の話になってしまうのでまたしたいと思います。ではまた!