昨日ある人と話していて思い出したのですが、僕が占いを始めたきっかけって「人が持つ雰囲気って何だろう?」という疑問からだったのです。

 

たとえば親とか親友とか、後はすごく生徒から慕われている学校の先生って「あれ?なんかあった?」とパッと顔を見た瞬間に言ってくる場合があったりするでしょう。

 

あれがすごく不思議で。「最近こういうことがあった」とか自分のことを言葉で説明する前に、ある程度の付き合いが長い人同士って「あ、この人はいつもと違うことがあった」って雰囲気で気づくことがある。


占いを始めたきっかけは、なんで人って親しい人同士とか親友だと何も説明しなくても「あれ?なんかあった?」と気づくんだろうと、そこにたいする疑問が始まりでした。

 

あと、これも昨日知人と話していたのですが「マンションって近寄りがたいマンションと、何かオープンマインドなマンションって個人的にありますよね」っていう話。

 

何か、別にそんなに大げさなものじゃなくても“要塞のように近寄りがたいマンション”って雰囲気的にあったりする。そこに引っ越して、生活をしていくイメージが個人的にはわかない。それはそのマンションが「良い」とか「悪い」とかではなくて「自分の未来にとってはご縁がないだろうな」と思ってしまうものです。

 

あと、たとえばテレビとか見ていて、お笑い芸人さんが「どうも~」って出てきて、その「どうも~」だけで、まだ漫才もお喋りも始めていないのに「なぜかこの人たちは見なければいけない」と思わせて、惹きつけられてしまう人たちってどうしてもいます。

 

もちろん、こういう「雰囲気」なんてものは当てずっぽうのものでもあるし、大人になってから知ったのですが、しょっちょう「なんか顔色悪いね。大丈夫?」と聞いてくる人もいるからそんなに気にしなくても良い話でもあります。

 

僕は大学院で哲学を研究していたのですが、表向きの研究テーマとは別に、裏の研究テーマとして「運と人間の関わり合い」だったのです。けっこうですね、中世とか近代で「運」って真面目に研究されていたところがあったのです。だって、人間の歴史って正直「運が強い人がある権力を取る」ということがあったわけだから。

 

その運の研究を勝手に追求しているうちに「人間の雰囲気情報を色で見る技術」ということを教えてもらうことがあって(大変怪しかったのですが)、それはインドが発祥の地みたいなのですが、昔の時代の医療行為って、たとえば顔色であったり、雰囲気、または専門的に脈拍を観たりして「この人の顔色だとこの臓器が悪いから、こういう養生をしてください」とかそういうアプローチがあったわけです。

 

僕は今自分がやっている占いの技術って特殊能力ではなくて、古代人が生き延びるために使ってきた力だと勝手に思っています。昔の人ってコンクリートはないし、すきま風は入ってくるし、冷暖房もないし、急に攻め込まれるかも知れないし、病気が流行ったりとか、今よりももっと「生きる」ということに違う体力と知恵を使わなければいけなかったところがあったんじゃないか。そして、そういう環境の中にあって「何かこの土地には私は近づいてはいけない気がする」とか、そういう理屈とは違う「勘」に根差した感覚ってもっと強くあったんじゃないかって思うのです。

 

そういうことを研究しているうちに今のような仕事になってしまいました。まとまりがないのですが終わります。