ちょっと過激なタイトルで申し訳ないのですが、以前Twitterに

「すべからく、すべての人は病んでいる部分を持っている。例えば仕事が好きな人なら健康を害してでも「もっと!」と仕事の成果を求めることがある」

「病んでいることのすべてが悪いことではなくて、その病んでいる(=バランスが偏っている)部分があるからこそ、そこにその人にしかない個性がある」

ということを書いたことがあるのですが、今日はその「病んでいる」部分の少し怖い部分を書きたいと思います。

まずはじめにあえてこういう言い方をしますが、僕はTwitterとかブログ、そして文章なりその人の言葉というのは

「かなり偏りのある意見」

として聞いています。

もちろんそれは自分自身の言葉に関しても同様で、僕自身は自分が使う言葉のすべてを「ある主観や人生観に基づいた、かなり偏りの入った意見」だと思っています。

もし仮に自分が言う言葉が「みんなが従うべき正義で、従わない人たちがどうかしてる」と思った瞬間に、その言葉は人に届く温度を失い、たちどころに冷たい凶器になっていきます。

人は偏った意見を持っているからこそ面白いのであり、僕自身はその「偏り=その人の病んでいる部分」ってもう少しだけ「そういうところ面白いよね」という視点で見つめたいと思っています。

たとえばもうどこかおかしくなってしまったみたいに誰かを好きになってハマっちゃう時とか、なんの足しにもならないのにバカなことをやってしまったり、そういう「非生産性」って自分が見捨てなければどこかの時点で「立派な生産性」に逆転することがけっこうあるんです。

でも、「偏っている=病んでいる部分」はやっぱりその人が体内に持つ「毒」の部分でもあるわけだから、注意してあつかわなければならない。

よくやりがちなことって、自分の「偏り」を人に感染させたいと変な形で願ってしまうことです。

たとえばワーカホリックという「偏り=病んでいる部分」を持っている人は、意識してその偏りから一線を引いておかないと、目の前にいる人がワーカホリックじゃないと不安で不安でしょうがなくなる。

だから色々なロジックをつかって目の前にいる人を「ワーカーホリック病」に改宗させたくなってしまうことってあるのです。

「そういう働き方をしているとあなたの将来大変なことになるよ!」

とか、別にそこまで咎められるべき働き方をしていない他人に対しても「自分と同じじゃなければダメ」と自分で不安になって相手を同化させようとしてしまう。

だから、実際の年齢区分についてはハッキリとわからないのですが、ある程度大人になってきたら「自分がどういう病み=偏り」を抱えているかをなんとなく自覚しておいて、それを込みで話をすると、実はそういう穏健な言葉の方が人の胸に何かを届かせることができるんじゃないかと思います。