先日占いに行ってきたんですよ。

僕は占いをする人とは縁が今まであんまりなかったんです。

でも最近知人から「すごく面白い方がいる」と紹介されて、見てもらったんですね。ドキドキ。

そしたらすごく当たっていたし、自分が考えていることってそれほど間違ってないんだと思いました。上から目線じゃなくてすごい感動しました。「すげー!なんでわかるの?」って。

ただ、同時に自分の身に置き換えて「気をつけなければ」と思った箇所もありました。

占いって、腕が良い人やその人なりに自分や誰かの人生をきちんと観察してきた方においてはいわゆる「当たる」という出来事が多くなります。

でも、たとえばの話で占い師さんに「引っ越し」について言われたとします。「今の場所よりも◯◯の方が合ってる」と言われた場合とか、そういう場合に「恐い」とどうしても僕は感じてしまいます。

たとえば、人生って良いリズムの時もあれば、あんまり良くないリズムの時というのも、どの人にもあると思います。

そして、そういう悪いリズムが続いた時に「『あの時引っ越した方が良い』と言われたことを守ってないからこうなのかな」と思ってしまうこともあるわけじゃないですか。そうなってくるともうそのアドバイスは親切とか助言じゃなくて「呪縛」になってしまうのです。

だから何か、占いってコンディションが悪い時に聞いてしまったら、見てもらった時の情報が7割当たっていたとしても容易に「呪い」になってしまうこともあるなと思ったのです。

占いは相手に多少なりとも「影響力」を与えてしまう力を持っています。だからこそ、会った時はもちろん、その人が帰りの電車に乗ってお家に帰り、日常に戻っていくまでに「余計なモヤモヤ」は残さない注意は倫理として必要だと僕は思っています。

たとえば上司とか、自分より力がある人が「あんたそんなんだから人生ダメなんだよ」と、いわゆる愛とか信頼関係がある形ではなくて、まったく無関係のところから人格とかそれまでの人生を否定されてしまった時って、すごく強い「モヤモヤ」が残ってしまうことがあるから。

どんなに生ぬるく感じても「まぁ、色々ありますよね」の方が、自分勝手な鋭い「否定」や「勝手な洞察」よりも後々の有用性ってあるなぁと僕は思ってしまいます。

最後にですね、「この人の言葉は受け入れられる・受け入れられない」を判断するのに良いやり方があります。

Twitterでもブログでも文章でも声でも、その人の姿形がわかる人なら、その人が「私の肩に手を置いて喋ってる」と想像してみてください。

まったく想像の世界なのですが、その人の手に温もりを感じたら、その人の言葉って自分の身体が「受け入れても後々あんまり消化不良を起こさない言葉」になります。

逆に冷たさや違和感を感じたら、もしくは「あ、この人に触ってもらうの無理だわな」と感じたら、それがどんなに正論として圧倒されそうになっても、それを受け入れようとする自分の意思は「恐怖」という名の強制力になります。