去年のいつぐらいかは忘れてしまったのですが、名越先生と愉快な仲間たちとの福岡合宿の中でみんなが「来年の願い事は?」みたいな話の雑談になったのです。その時に名越先生が

 

「具体的な願い事はないけど、頼むからみんな俺の前で具合悪くならんといてね」

 

と、半分冗談で笑いながら話したのです。名越先生はお医者さんだから、自分の周りに具合が悪い人がいるとすごく気になってしまうそうなのです。

 

これすごいなぁと思って、なんでこんなエピソードを話したのかと言うと、僕自身が今「人を見る」お仕事をさせて頂いて何年か経った時に「人の抱える痛み」に対してやはりどうしても日常生活の範囲からすごく敏感になっていったのです。たとえばプライベートで本屋さんに行ったときに雑誌を立ち読みしている人が「どういう雰囲気で料理本を立ち読みしているか」とかすごく気になってしまうことがあります。

 

それで、今日は「痛み」の話をしたいのです。これはハッキリと思うのですが、痛みをすごく抱えている人は表面的な表情や雰囲気にその痛みを全く出せていません。そして、周囲の人に「助けて」とも言えません。

 

だから、僕自身は「会っていて全く疲れない人」って実はすごく心配になります(冒頭に書いた名越先生とかは表面的な表情ではない、奥にある表情を感じ取られているのだと思う)。

 

・誰かと会ってその人に必要以上に尽くしてしまう人

・誰かと会って、その人をまったく疲れさせない人

・その人がいると周りが盛り上がり、面倒くさい処理なども色々と自然に頼まれる人

・誰かに対して反論したり、意見したりするぐらいなら「あ、じゃあもう私がやっちゃいます」と色々引き受けてしまう人

 

そういう人って言葉に出せない「疲れ」とか「痛み」を抱えてしまっていることがやはりとても多いのです。

 

他者と一緒にいて相手に少しの疲れも与えない人って、その人自身が疲れを100%引き取ってしまっているとも言えるから。

 

繰り返すと、「他人に疲れを与えられない人」、もしくは「いつもみんなの前では良い子なのに、特定の人の前だと同一人物だと思えないぐらいにすごくひどい性格になってしまう人」。そういう人たちが抱えている中心の価値観って「他人の役に立たなければいけない」です。もしくは過剰な形で「接する人達に喜んでもらわなければいけない」と思っている人なのです。

 

「誰かの役に立たなければ私はここにいてはいけない」

 

現代社会に生きる人のすべてが、少なからずこの強迫観念って引き受けて生活しています。

 

ある種、そういう強迫観念の中で「ある程度の力の抜き方を知っている人」って、自分が感じる幸せをたぐり寄せることができる人なのです。

 

行数が長くなったので解決策についてはシンプルにまとめたいのですが、「助けて」が言えない人は頭で考えて「こういう性格に変わらなければいけない」という試みははじめは無理だと思います。

 

それよりも身体を伴う作業をして「有用の時間」「他人に役に立つ時間」から自分を切り離して、いわゆる都会的な時間から自分を切り離して「無価値な時間」を何パーセントか取り入れるということが必要になってきます。

 

こればっかりは実際に森に入って頂いたり、観光スポットがない場所でノンビリして「こんなことやっている場合じゃない」という焦燥感が起こらない自分に慣れていくしかないかも知れません。

 

暗くなり過ぎず「今の時間の私は他人にとってほどよく無価値で良いや」という時間を何分かでも持ってあげてください。おしまい。