7月のしいたけ合宿の応募はとりあえず締め切りました。たくさんのご応募ありがとうございました。
また、今回またお約束したいのですが
・いずれファスティングプラン以外の合宿もやりたい
・東京などでもお会いできる機会を設けていきたい
です。それは今後の課題とさせてください。
それで、さっきまで色々な資料を整理していたら去年2016年に福岡でやったファスティングの日記が出てきたのです。
去年やった合宿が僕にとってはじめての催しだったし、ものすごく未知数な部分も多かったのです。
でも、なんかその合宿が終わってみて、みなさんが2泊3日のファスティングをやり終えて、その参加者に向けて何を感じて、何をお伝えさせていただきたかったかというと、それは「自分が病気になった時に、周りに何を伝えたいか」だったのです。
ファスティングをやる福岡の篠栗(ささぐり)の若杉屋さんって、若杉山の道中にあって、ものすごく絶妙に俗界から隔離された場所なのです。そこでですね、いわゆる食べ物を食べないで内臓を休ませるという体験って、多分普段の我々の生活からしてみたら一種の「異常体験」になります。
そしたらですね、2日後に良い形で「弱くなった」のです。そこに参加している皆さんから感じるものが。
もっとですね、都会とか、普段の社会の場で生きているときの人から発するものって、もっと強いです。
・良い会話をしなければいけない
・もっと上昇しなければいけない
・もっと自分をわかってもらわなければいけない
って。
社会生活のなかで、対人関係のなかで、ひとりぼっちになることって得たいの知れない恐怖として感じられることってあるじゃないですか。
そのひとりぼっちの恐さって多分、「自分が何か周囲に対して働きかけていなければならない。そうしないと存在が忘れ去っていってしまう」という恐怖なような気がするのです。決して物理的に「ひとりぼっち」になったからといって、自動的に「寂しくなる」とかではないのです。
ある特別な環境のなかで、できればそれは昔から「聖地」として多くの人々の手によって守られてきた場所で、自分と向き合ってみる。それって昔の人が行ってきた「生きていく」ための知恵であって、何かの知識を身に着けるというよりかは、抜く体験なのだと思います。
話が長くなりましたが(笑)何かみんなでその2泊3日のファスティング体験をしたことで「穏やか」になっていたのです。
それで感じたことって、多分一度でも大きな病気などをしたことがある人って、もしかしたらこういう「強い弱さ」についても手に入れるのかなということでした。
僕自身もファスティングを体験してからも、怒ることはあります。イライラすることももちろんあります。そして「わかり合えなくてやきもきすること」もあります。でも、以前よりは引きずらなくなりました。
ファスティングによって、自分のプライドが傷つけられたこととか、それでイライラを引きずってしまう時間がもったいないと思えたからなのです。
自分が病気になった時に周りにどう接したいか。何を言いたいか。
人は自分の足で動けるから頑張ってしまう。自分の口で伝えられるから言いすぎてしまう。もしくは、何も言わないで「察しろよ」という空気を出して黙りこくってしまう。
でも、自分がベッドに寝ている状態になって、上手く喋れなくなって、次にいつ会えるかわからなくなったとき。そのときって多分「今」の貴重さとか、目の前にいてくれる人の大切さって変わってきます。
「もっと弱くていいんじゃないか」って、それを多分僕は伝えていきます。ひとりで全部できなくて良いんじゃないかということも。それは何も「何もしなくていいんだぜイエーイ」という意味ではなくて、人って強すぎてしまうと周りを必要としなくなっていってしまうから。
弱さを体験することって全然恥ずかしいことではないです。自分の無力感を感じてしまうことも全然マイナスではないです。むしろそれはかけがえのない体験なのだと僕は思います。