星野源さんが好きだ。

 

歴々の星野源さんファンに比べたら全然まだ序の口の序の口の星野源さん好きのひとりなのですが、なんていうか星野さんって「急速に知っていこう。追いかけていきたい」という方ではなくて

 

「ある程度長い時間をかけて、自分の成長と共に星野源という人と時間を共有していきたい」

 

と思わせるすごく不思議な人なのです。

 

僕が一番はじめに星野源さんという人に惹きつけられたのが、人見知りと左利きというキーワードだったのです。特に最近の『いのちの車窓から』(2017年、KADOKAWA)から抜粋したいのですが

 

 

10代から20代にかけて、いつも「ひとりぼっちだ」と思っていた。そのたびに悲しい気持ちになり、周りにたくさんの人がいたにもかかわらず、心はひねくれた。

 

変な理想を掲げ、現実を見ることができず、幸せを感じないように自分を追い込んでいた。

 

「幸せになってしまったら良い表現はできない」などと、己の人間性や才能に自信がない自分を正当化するための、言い訳に塗(まみ)れた情けない理論を掲げたりした。嫌う必要のないものを嫌い、好きでもないものを好きと言って、人と違うことをアピールしようとした。

 

そのままの自分を認められない、偽らずにはいられない、誰かに馬鹿にされる前に自分で自分のことを悪く言い、「わかってますよ」と傷つかないようにバリアを張った。情けない。そんなことをしていたら、実際にこの上なく幸せな人生だったとしても、幸せな気持ちになんて一生なれないのに。

 

今はそんなことはまったく思わなくなった。

 

」(「ひとりではないということ」、p.190)

 

もうここなんて恥ずかしながら僕自身もずっとそんなことしか思ってこなくて、星野源さんを知ってから自己紹介の時に「人見知りです」という言葉をなるべく使わないようにしました。

 

今人見知りで苦しんでいる人ってたくさんいると思うけど、僕はずっと「人見知り」という言葉と自己紹介を使ってきて、この言葉の

 

「一瞬にしてその場から自分が“いないことになっちゃう”怖さ」

 

って知ってきたから。幸せや痛みを感じる前に、「その場からいないことにしてしまう」怖さって人見知りという態度にはやっぱりどうしても含まれてしまうのです。個人的には人見知りとかシャイの人って大好きなのだけど、もし、心の中で人が多少苦手とか、気後れしちゃうようなことがあっても、どこか「人見知りではなくなってきたよ」って、今現在人見知りの人がそう言える日がくることを願ってます。

 

それで、この前知人と話していたのですが、星野源さんってなぜ作詞作曲、ミュージシャン、文筆家、役者、最近だと声優とか、なんでそこまで「表現」に対してやるのかって。たぶんそれって

 

自分の得意分野であったり、『強力な表現の武器』を作って、そこだけに自分を逃げ込ませないため。

 

もっと自分が感じたこと、思ったこと、表現したいことをもっと素朴に、もっと強く、「感じたことを感じたまま」に不器用でもカッコ悪くても伝えていきたいから。

 

不得意とされる表現方法(文章とかエッセイとか8時間かけてつくる場合もあるみたいです)についても諦めないんじゃないか。

 

伝えることを諦めない。

 

星野さんって完成がない人で、ただただ「伝えたい」が先にあるからこそ表現方法については限定しない。

 

「星野源がいる世界」という贅沢な時間を星野さんから受け取って本当に幸せです。

 

写真は我が家の星野源さんコーナー。

 

 

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