ちょっと原稿の合間にマニアックな話をしたいと思います。

 

時々お客さんとか知り合いから

 

「方位の吉凶ってあるんですか?」

 

ということをきかれるのです。

 

方位占いって「この時期に東への移転は避けた方が良い」とか、そういうことを告げるやつなのですね。

 

それに対する答えって、まだ僕の中で正直「わからない」ということなのです。それだけ方位占いって簡単に扱えるものではないし、奥が深いものなのです。

 

僕は「方位占い」って「なぜ方位占いが必要になったか?」という発生の起源に立つことってすごく重要なんじゃないかと思っていて、

 

たとえば日本だと「方位占い」って平安時代の書物にはよく出てくる言葉になります。「方違い(かたたがい)」とかですね、「この方向から東の方向に行くのは危険だから、一回南に引っ越すとか、一晩泊まる」というのが方違いというものなんですね。

 

これには僕は、平安時代とかに特有の事情があったと考えていて、たとえばですね、平安時代の貴族の恋愛って、男の人が女の人の元へ行く「通い婚」みたいなものがあったのですね。

 

何回か通って、夜を共にして、それで好きあったら名前を明かすというような。

 

もちろん恋愛事情だから、一時期はすごく通っていたのに、ぱったりと姿を現さなくなったなんてよく起こっていたと思うのです。

 

方位占いが起こった起源って、僕個人の感覚だと

 

「残されたものの恨み」

 

というのが大きいんじゃないかって思うのです。ほら、現代の我々の感覚においても「ひどい振られ方をした駅の近く」ってなんとなくそこを通りたくないじゃないですか。

 

昔の時代って日本でも、占いというものの本場の中国でも、「ある部族がある部族を滅ぼし、その土地に住む」とか、そういうことはザラにあったと思うのです。その「恨みの因縁を丁寧に扱う」というのが、方位占いに課せられた効用だと思うのです。

 

「あー、あの時に私はあの方にひどいことをしてしまった。もう会うことは許されないが、できればあの方に幸せになっていて欲しい。東の方向に向かって合掌」

 

ということをやるためにあるものだと。

 

人間には「勝ちを重ねて自由に動ける者と、その場所(思い出)に取り残されなければいけない者」が出てくる。その「勝ち」の人間が決して「残った者」に対して「あなたのおかげがありました」という断ち切らない想いを残すことに意味っていうのがあると思うのです。

 

だから方位占いって、僕の中では「吉と凶を占う」というような単純なものではなくて「凶」とされる「残されたもの」に対して「きちんとした感謝を忘れず、あなどらず、きちんと自分なりのお祀りをすること」ということが大切になる気がします。今ある愛情にも、失われた愛情に対しても、それに対する誠意というのは「時々はきちんと痛みも含めて思い出す」ということにあります。それが笑い話になったらもう成仏したということ。

 

「方位なんて関係ないぜ!好きなところに行けばいいんだぜ!」とは100%は言えません。

 

土地に関してはどうしても一回では言い切れないのでまたどっかの機会でこのテーマを話します(笑)