今回福岡県の篠栗の若杉屋さんで23名の方を前に1時間半お話をするということがあり、何を話したいかを散々悩みました。

それで、自分が今のお仕事だけでなく、一人の人間として生きてきて一番関心があり、それで、おそらく集まってくれた皆さんにとっても関心があるであろう「わかり合う」ということについてお話させていただきました。

人って、どうあったとしても「人と人との間」で生きていくより他はありません。

その中で「自分の目の前にいる人とわかり合うこと」って、すごく難しいかも知れないし、すごく簡単なのかも知れないし、そもそも人間関係って「こうすればOK」という絶対的な回答はありません。

自分が「良かれ」と思って言った一言がすごく相手を傷つけてしまったり、逆に、全然自分がそこに意識を向けてなくてやったことが相手にとったらすごく嬉しかったり。他にもまだまだあります。

変な言い方になって申し訳ないのですが、「自分にとってそんなに大事じゃないと思ってしまっている人」とは簡単にわかり合えるような気がするのに(←それもまた表面的な勘違いの場合が多いのだけど)、自分にとって大事だと思っている人と全くわかり合っていなくて途方にくれる。大げさな言い方ではなくて、この「わかり合えなさ具合」にどの人も自分の人生で何度か絶望的な気分を味わったこともあると思うのです。

「わかり合う」ということについてあれこれ言うためには「わかり合えない」という辛さについてどうしても先に触れなければいけない気がします。

「わかり合う」という一瞬の奇跡は、「わかり合えない」という辛さの上に築かれるものでしかないような気がするからなのです。

でも、そんな辛い「わかり合えない」ということに関しても、一つだけ褒めても良いんじゃないかと思うポイントがあるのです。

それは

少なくとも、「わかり合えない」という辛さと苦しみを抱えている時は、「わかり合おう」としていることから逃げていません。

テキトーな早合点をして「あの人はこういう人だから」という枠に相手を収めちゃう方が楽なのです。

コミュニケーションって恐いのです。わかり合うって常に「わかり合ってない」というコインの裏側を抱えているものなのです。

だから「わかり合えない」という前提に立っちゃった方が、傷は多分つかずにすみます。

でも、どうしても、どうあったとしても、人は人に対して「わかり合いたい」と望みます。望んでしまいます。

だから多分、逃げないことしかできないのです。傷をつけ合うこともあるのです。時々は逃げてしまうこともあると思います。そして、その関係性に対して怖い話「最終決断」をも含んだ「自分で責任を持つ」ということしかできないのだと思います。


「ではどうしたらわかり合う」ということに一歩でも近くことができるのか?

それについて今回話しました。

ということで次回はその「わかり合うということに対して若杉屋さんで何を話したか」について言及していきたいと思います。