これはあくまでも自分の私見なのですが、大人になってから自分独自の仕事をやられる方や、いわゆる広い意味でクリエイターとされる人達と仲良くなって話をしていると、彼らなり彼女らには人生のどこかで「コミュニケーション不能」の時期があったという話をよく聴くのです。

 

自分がやりたいことが誰にもわかってもらえず、そして自分自身が何をやっているか、何をやっていきたいかということをどうしても「言葉」に直せないという時期ですね。

 

そもそも、たとえば言葉なんてものは「ある物事を伝えるための単なる配列」とも言えるものじゃないですか。

 

でも、ある人が言った言葉というのはとても深く胸の中まで沁みて、一方である人が言った言葉というのは「ふーん」で終わってしまうということがあります。

 

その差って、やっぱり「その人にしか話せなかった表現なり、間なり、言い回し」とか、ひいては世界観ですよね。そういうのを人生のどこかで熟成されたからなのだと思うのです。で、僕個人はその熟成期間って絶対に「孤独」がつきまとうものだと思います。

 

平川克己さんと内田樹(たつる)さんとの対談本で『東京ファイティングキッズ・リターン―悪い兄たちが帰ってきた』(文春文庫) – 2010/1/8)というのがあるのですが、そのなかでこの孤独のことを「知の肺活量が鍛えられるもの」というような表現でされていたのです。つまり、息をとめて耐えている時間の中で、「他人に簡単に伝わる言葉ではなくて、自分のなかでずっとずっと言葉を磨き続けることによって、言葉は歴史の査定に耐えられていく」というようなものを作る時間があるということ。

 

ちょっと小難しくなってしまったので話を戻すと、僕自身は大人になってからも「会話」というものが苦手で、会話って(ひいては表情というものも)基本的に「相手に合わせる」とという性質が強いじゃないですか。会話とか表情ってかなり「社会的」なのです。

 

「昨日何してたんですか? 」と言われて、たとえばそれが「本当に自分が昨日やっていたこと」を話しても、相手がそれに対して全く理解できないようなことだったら「あー、昨日ね、昨日は別に普通に買い物とかしてたよ」というようなことを話さなきゃいけないと思い込んでいたのです。今はまた「会話」の違う面にも気付いていくことができました。一昔前の僕なんて「昨日は畳と話してました」とか「バッタを見てました(成人後)」と言ったらおしまいみたいな空気を常に感じてましたから。「イギリス人になるように毎日紅茶を飲んでました」とか。

 

だから、これは考え過ぎかも知れないけど、「会話」とか「コミュニケーション」というものに長け過ぎてしまうと、自分が本来言うはずだった言葉って削がれちゃう気がするのです。大人になってからやっと「合わせる言葉」(=他人に理解してもらえる言葉)「自分の言葉」って別物として扱うことができるようになったけど、18歳ぐらいの時に今の環境みたいにスマホとかlineとか出てきたら、僕は絶対に友達ができなくて会話もできなかったと思います。

 

「自分がお腹の底の方から言いたい言葉」

 

 

「人に合わせる言葉」

 

って絶対違うから。でも生きているとやっぱり両方に取り組まなければいけなくて、それはそれで良い修行だなぁって思えるような年齢になりました。

 

何が言いたいかというと、「合わせる言葉」なんてものは30歳を超えてからでもいくらでも磨くことができるから、それまではどっちかというと「口下手」で「いまいちよく伝わらなくて」、「自分でも何が言いたいのかわからない時間」って、簡単にそこに答えを出そうとしないことってけっこう大事なんじゃないかという提案でした。おしまい。