去年の今頃、歌舞伎で忠臣蔵を観劇してきました。以下長ったらしい感想。

舞台ってあまり観たことがないのですが、西洋の舞台にあって、能や狂言、歌舞伎などの日本の伝統的な古典芸能にないもの、それはもうひとつに「全身というものを使った表現の違い」というというところになるのだと思いました。

たとえば女性が一人下を向いてしずしずと歩いている姿を想像してみて下さい。もしこの子がバックの中にチョコレートを持っていたら「あらやだ」って微笑ましくとらえられるのですが、同じ“しずしず歩く”にしても、バックの中に包丁が入っていたらホラー映画になる。

あんまり舞台の観劇経験はないのですが、すごい芸者や踊り手の中には、この「しずしず」の中に色々な感情が含まれていて、観る者に対して「ただ事ではない」という固唾を呑んで見守る感を届けます。

これもちょっと遠回りして話していきたいのですが、私の人生の中で何個か衝撃的な出来事があって、その内の一つが京都の歌舞伎座で観た坂東玉三郎体験なのです。その時の舞台は嫉妬に駆られた女が般若になり、そして蛇になるという有名な『道成寺』だったのですが、ヘビになる前の「しずしず歩いている感覚」っていうのがもうすごかったのです。静かだからこそ、余計に狂気が伝わって怖いという。

あの、歌舞伎役者の人達が普通のタレントさんとかに比べて身にまとうオーラが全く違うものになっているのは、それは古の舞台を何度も演じてきて「その人が何を抱えていながらそこを歩いているか」ということを何度も何度も何度も重ねて演じてこないと、身振りや歩き方に対して人に伝える何かを持たないというところから来ているのかなと思いました。