と言われていい気持ちになる人は・・・あまりいない。と思う。







最近の日本はこの文字だらけになっていますね。



アニメ・ゲーム業界を騒然とさせた都条例から、教育現場から、

何か起きればまず「禁止」。うむ。。



TV番組や映画の内容などはどんどん当たり障りなくなってきましたが(バラエティや、アニメなど)、裏腹にとんでもない事件や、小学生の自殺など、10年、20年前なら考えられなかった事件が近年急増しています。









今日打ち合わせに向かう途中、駅構内で見かけたよくある広告



「チカンは犯罪です!」







いつも思うのですが



・・・・んなもの犯人だってわかってるでしょ・・・。





いけないってわかっててやるのが楽しいっていうおかしな人が犯人なわけです。

当たり前だけど、犯罪じゃないって思ってやってる人はいないよね。





だから、この広告は全く意味がないんじゃないかな、と思うわけです。







子供の頃誰しもが少しは経験したことあるんじゃないかしら?



禁止!禁止!禁止!



って言われるほど、やってみたくなっちゃう・・・。







潜在意識は認識したものが「善か悪か」見分けがつかないといいます。

それが「刷り込み」という効果にもつながるのでしょうけど

人間として持っている「好奇心」のパワーもあいまって、よからぬ結果を招くことにもなるんじゃないかしら。







禁止される。







我慢する。







我慢する人ほど我慢がためこまれる。







ここでうまく発散できれば問題ないけれど

発散できない人は、いろんな形に歪んであふれてきてしまいます。



共依存であったり、ギャンブル依存、異性関係のトラブル、鬱病。





その、行き過ぎた形が「犯罪」になってきたりするんじゃないかな。





また、過剰な「禁止」によって無菌状態で守られてきた子供たちは、痛い目を見ることを知らないので、過酷な状況や自分が否定されることに慣れておらず、心の免疫がついていきません。



守られる事によって異様に伸びている才能もあれば、逆にちょっとしたことでしぼんでしまったり、不幸な方向へ向かってしまうケースも増えているように見えます。

こういうところでも二極化が進んでいますね。







心が健やかな時は、日々生活のうまくいかないことを、やり過ごしたり対処したりできますが、環境がそれを許さない時・・・たとえば、あまりに心が病んでいる時、禁止禁止だらけの環境で自分の判断が弱くなってしまった時。否定ばかりされ、誰にも受け入れてもらえない時。

誰かに裏切られ続け、ひどく傷つき誰もかれも信用できなくなってしまった時。

(生きていればそんなことも時にはあるよね。。)



本当に心が弱った時、追いつめられた時、人は正常なら考えられないような心理状態に陥ってしまうこともあるわけです。







そういう人が、凶悪犯罪のニュースを目にした時、あるいは暴力的なゲームに没頭した時・・・っていうことです。

TV番組であるか、映画であるか、ゲームやマンガであるかはわからないけど、それらはきっかけにすぎなくて、本当は問題が別のところにある。









だとしたら、「禁止の嵐」は解決よりも助長になってしまうんじゃないかと思ってしまう。







逆に、最近よく見るこのタイプの広告。





「また○●(親切な行為)しよう」







とか、





「いつもトイレを綺麗にお使いいただきありがとうございます」







この類いのプラスな言葉を使った広告は、見ていても気持ちがいいし





「おっそうか、きれいに・・・はい、あ、します。。えへ。」






みたいな気分になってきます(笑)

この言葉が書き込まれているトイレで「汚い」と感じるトイレはなかったように思います。







自転車置き場にある



「おかげさまで盗難犯人逮捕しました!」





という看板を見かけた時には思わず

「やるな~~!ニヤリ」

としてしまいました。









同じことを言いたいのに、表現の仕方が全く逆なだけで

入ってくる気持ちが変わる。




光の当て方で全く違って見える。







最初に書いたように、人間の心理には「刷り込み」という作用が働くので

せっかくなら気持ちのいい言葉を遣うようにするだけで、この社会は明るくなっていくのでは?



みんなの心も、ただ「禁止!」って上から叱られるよりは明るくなれるのでは?







と思うわけです。