ジフニが自分の半生を語っています No.2 | RAIN(ピ)LOVE2 旧別館1

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yahooブログから引越ししてきました。2005年8月22日~2012年8月26日までの記事がアップされています。

6. 母の入院費まで責任を負ったチニョン兄さん

オーディションテープを送った後、(パク)チニョン兄さんから連絡が来た。
「アルバムを出してみよう」と私を兄さんの弟子に受けいれてくれた。
私は本当に嬉しくて、もっと熱心にダンスをし歌の練習をした。

このように私が喜びに浸って歌手の夢を育て行く間、母の病状は更に悪くなった。
ブラジルにふらっと去った父は、数ヵ月後、そこでも適応できないまま帰って来た。
父の代わりに家長の役目をしていた母の健康は急に悪くなり、私は正直、母が幼い時からしょっちゅう病気だったので、その頃はそんなに深刻な状況であるとは思わなかった。
父は韓国に帰って来ても地方を歩き回り、母の面倒を見る人もいなかった。
私もやはり「私一人だけでも熱心に生きなくてはならない」と考え、母を十分に面倒見なかった。

私はチニョン兄さんに母の状況について全て話した。
すると兄さんは「私がお母さんを入院させて、入院費も出すつもりだから心配するな」と私を慰めた。
本当にありがたい方だ。

その後、母は入院をした。
ところが既に時は遅すぎた。母が入院した時には炎症がひどく、全身が膿んでいた。
病院でもそのまま退院したほうがいいと言った。
母はまた家に帰って来たが、その当時を思えば私は本当に胸に恨みを抱く。
母の状態は引き続き悪くなり、また入院した。
母が入院した当時、チニョンが兄さんのお父さんと兄嫁(チニョン兄さんの妻)も来て母のそばを見守ってくださった。


7. さびしい練習場の代わりに地下鉄・バスで

母は天国へ旅立ちながら最後の言葉を残した。
「妹を大事に育てなさい」という言葉で、私は母に 妹をよく面倒を見ると約束した。
そして心の中で「一生懸命やって必ず最高になる」と何度も誓った。
今でも母を思えば胸に恨みを抱く。
もうちょっとだけ待ってくれたら、私が本当に立派にやる姿を見せることができたのに・・・
家族に本当によくすることができたのに・・・ そうできなかったことを思えば胸が痛い。

母を見送ってから私はもっと熱心に練習に集中した。
チニョン兄さんは一つ一つ直接教えてくれるのではなく方法を教えてくれた。
事務室では振付のためにソウル12動作、ステップ9動作が盛り込まれたテープを製作し、私はそのテープを見ながら、うんざりするまで練習した。

チニョン兄さんは忙しくない時は日曜日ごとに練習室へ来て、私のダンスを見ながら指導した。
ところが、「上手だ」 という言葉は一言も言わなかった。
最近は「格好いい。上手だ」 という言葉をよく言うが、その時は常に「どうしてお前みたいなヤツがダンスをするのか、全然ダメだ」と、がっくりさせた。それがチニョン兄さんの教育方式だった。

チニョン兄さんがアメリカでの音楽作業のために私を教えることができない時は、孤独との闘いをしなければならなかった。
練習室に一人で遅くまで残って、振付を練って練習をしたが、この時は本当にさびしかったし憂鬱だった。
それで私が考えた方法は、地下鉄,バスの中で踊り、歌の練習をすることだった。


8. 2年間の練習いよいよアルバムが

練習をしながら私のアルバムが出る8月だけを指折り数えて待った。
ところが8月になるとまた変わってしまった。
同じ所属事務所の(パク)ジユン姉さんのアルバムを出さなければならなかった。
私のアルバム作業は再び11月に延期された。
そうしながら私の不安感はもっと大きくなっていった。
ジユン姉さんのアルバム作業をした後チニョン兄さんはまたアメリカに発った。

私は不安の中で支えてくれる物もなく、ただ歌の練習に更にしがみついた。
「2年の間ずっと練習だけしてアルバムを出すこともできないのではないか」そんな気がしたし、「ダンス歌手なのに年を取りすぎるのではないか」 と不安になったりもした。
今年2月頃、韓国に帰って来たチニョン兄さんは「今度は本当にアルバムを出そう」と言って、一ヶ月だけで録音を全て終わらせた。
既に曲は全部作られている状況だったので、録音作業はすぐ終えることができた。

いよいよ4月28日 <悪い男>の初放送デビュー舞台。
今まで私が練習したダンス,歌あらゆることすべて見せたかったが、思ったよりよくできなかった。
特別に間違った部分はなかったが、緊張して自由に体を動かせなかった。


9. ファッションデザイナーでも成功したくて

歌手活動を始めながら、一番気分が良くなかったのは「お前はどうしてライブをしないのか?」という話を聞いた時だった。
本当に一生懸命に歌の練習をしたので、私はライブをする自信があった。
ところが初めてだし、新人なのでリップシンクで舞台に立つ時が多かった。

ずっと腹が立っていたが、いよいよ6月末初めて MBC TV <音楽キャンプ>でライブをした。
人々が「お前、踊りだけうまいと思ってたけど、歌もうまいね」と言いながら、賞賛したり、一方で驚いたりした。
今まで、初めてライブをして賞賛を受けた時程、良い記憶はないようだ。

そしてこれからライブを立派にやる歌手になるのが最大の願いだ。
今、かろうじて私はデビューしてから3ヶ月にしかならない。
<悪い男>で名前を知らせたし、今、後続曲 <さよならという言葉の代わりに>はファン達からもっと良い反応を得ているようだ。それで年末まで一生懸命に活動するつもりだ。

そして最近は演技という新しい分野に挑戦した。
シットコムで「浮気者」役を引き受けたが、演技も本当に面白い。
歌も、演技もうまくやる万能の姿を見せたいし、後にはファッションデザイナーとしても成功してみたい。

今最大の夢は 10年後に素敵な成功した歌手としてひときわ高く立っていることで、その時ぐらいになれば、私が好きなデザインの勉強も始めるだろう。
そして 20年後にはデザイナーとしても認められたい。