ジフニが自分の半生を語っています・・ No.1 | RAIN(ピ)LOVE2 旧別館1

RAIN(ピ)LOVE2 旧別館1

yahooブログから引越ししてきました。2005年8月22日~2012年8月26日までの記事がアップされています。

以下の文は、『りんご&みかんのピを応援するぺーじ』に紹介されていたものです。
HP閉鎖に、ともなって、私がりんごさんにお願いして、こちらで紹介させていただく了解を得た上で載せさせていただいています。
是非、みなさんもご覧になってくださいませ・・・


☆『Star story』 は、デビュー3ヶ月が過ぎた頃、ビ本人が半生を語ったもので、新聞掲載時には全12回の構成だったようです。
公式サイトでは、一部が削除され全9回のストーリー構成になっています。
削除されてる部分は、学生時代の先輩とのトラブル・先生を殴ってしまった事件・自殺衝動にかられた話など。
また、デビューまでの経緯も更に詳しく語られていました。その点、ご了承下さい。


1. 私の小さい頃

未だに私は自分が歌手だということが不思議だ。
たまにCDを整理をしていて自分のCDを見付けると胸が一杯になる。
私が歌手になろうと夢を育てながら「ソテジワ・アイドゥル」 「ジュース」のダンスと歌を真似したように、今どこかで私の歌を聞いたり私の踊りを真似て踊りながら、歌手になる夢を育ててる人がいるということが本当に幸せに感じられる。

私は幼い時、ソウル弘益大の前に住んでいた。
母は一昨年亡くなり、今は父と妹の三人で一緒に暮している。
3歳下の私の妹は(私は 82年生まれで、本名はチョンジフンだ)、 なにしろ性格が無愛想で私とそんなに親しく付き合うことはできない。
2人とも口数が少ない方なので、お互いに一日で一言二言声をかけるかどうかだ。

幼い頃の私は、誰にも気付かれないように家を出るのが好きだったという。
ぼんやり思い出す一つの事件。4歳の時の家出事件だ。
両親が一緒に働いて帰って来ると私が家にいなかったそうだ。
そこで失踪届けを出し、私を探すためにあちこち無我夢中で歩き回ったが私を探せなかった。

そのように一日が流れ、電話が掛かって来た。江華島で私を見つけたという電話だった。
家の前にバスターミナルがあったのだが、たぶんそこからバスに乗って行ったようだ。
江華島では私の腕につけてあったブレスレットの連絡先を見て、家に電話をしてくれた。
記憶がはっきりしないが、あるおばさんがバスに乗り込もうとする私を助けてくれた記憶は、ぼんやりと思い出される。


2. 元来から内気だった私の性格

幼い時にも私は今のように内気で口数が少なかった。
今も人々と親しくなるにはとても時間がかかる。
でも、一度親しくなってしまえば「よくこんなに話すね」と関心されるほどたくさん話をする。

小学校時代、勉強にはあまり素質がなかったし、一日中話もせずに過ごした。
だから当然私を好きな女友達もいなかった。
ただクラスにいるのかいないのか目につかないほどだった。
少し目立ったとしたら背が高かったということだけ。私はいつも後から3・4番目に立つ高さであった。

静かに座っているだけだった私がある日事件を起こした。
小学6年生の時に行った修学旅行のクラス対抗特技自慢の時間だった。
クラスの順がだんだん迫ってくるのに誰も出ようとしなかった。
ずっと見守っていた私は、じれったい気分になり、私が出ると言った。

ところが、クラスの友達の反応がすごく気分の悪いものだった。
「なんであの子が出るのか」と私をけなす声があちこちから聞こえるではないか。
私は強気になり、いよいよクラスの順になった。

私は舞台の上に立った。子供達は私に集中し、音楽が流れてきた。
私は「必ず何かを見せてやる」と誓い、TVや道端で見たダンスを真似て無我夢中で踊った。
私の舞台が終わると子供達の拍手が湧き起こった。
その瞬間、私は初めて溢れんばかりの感激を感じたし、その時ふと私の頭にある思いがよぎった。
「そう、踊りだ」という言葉だった。


3. 悪い行いはしないと父に誓う

ダンスを習うために仕方なく怖い先輩達と付き合ったが、父と約束した。
絶対タバコを吸わない、悪い行いをしないということだ。
私はタバコを吸わないという約束を今まで守っている。

私たちのダンシングチームは熱心に練習して実力を確かめたくなり、ソウル蚕室ロッテワールドで開かれた全国アマチュアダンスコンテストに出た。
正確に何年度なのか思い出せないが、コメディアンのピョインボンさんが進行を引き受けていた。
私たちダンシングチームの名前は『チャレンジャー』。
私は4人の先輩達と出場し、背が高いので中央に立ってダンスをした。
しかし賞はもらえなかった。
後で歌手になってからインボン兄さんから聞いたのだが、私が出たその大会に歌手カンタ兄さんも出たと言う。

中学2年の時はラグビーにも関心があった。
ラグビー部の先輩達の姿が格好良く見えて、そばの学校のラグビー部の訓練に加わって練習をしたが、ダンスと運動の二つともは満足にできないような気がして踊りを選んだ。

そして中学3年になって進路選択の悩みに陷った。
友達は特に悩むことなく人文系高等学校に進学したが、私はダンスもできて勉強もできる学校を探した。
そこで決めた所が芸術高等学校であった。
私は演技学院に通わず、ただ家でドラマを見てセリフをメモしてから、一人で覚えて練習した。


4. 安養芸術高に堂々と合格して

演技に関して何も知らなかった私は、安養芸術高等学校入試を目前に控えて、書店へ行って関連本を全部買って読んだ。
演技の他に別の得意な物も見せなければならなかったが、ダンスと関連するものを探してマイムを準備した。
身体で表現することには自信あった。
周囲の人々は「お前が何の演技をするんだ」と反対したが、私は一生懸命やって堂々と合格した。

ところが面白そうに見えた演技が勉強だと思って習ってみたら、私とあまり合わなかった。
それで1年生の時の演技は大まかにざっとやり、その代わり先輩達と付き合って行き来し、ずっとダンスをしていた。
ダンスの実力が学校に知られると同時に、各種特技自慢の舞台に代表としてに出るようになって、女学生たちの視線が私にも集まった。

朝の度に学校へ行って私のロッカーを開けると、誰が持ってきておいたのか分からないプレゼントたちが積まれていた。牛乳・パン・花・手紙などだった。
近頃たまに「あの時、誰だか捜してみなければならなかったのに」と後悔するけど、当時はダンスをしようと無我夢中で女の子に気を使う暇もなかった。

1年生の時は演技に適応してみようとある程度努力したが、2年に進級してしてからは、これ以上我慢できないほど演技の授業を聞くのが嫌になった。
それで遅刻をいつもしたし、朝礼の時間にだけ席について、演技実習の時間には先生に分からないように「さぼり」をした。
そのようにしきりに踊りにだけはまりながら、私は学校の先輩たちに喜ばしくないほど「目をつけられて」しまった。


5. チニョン兄さんとの運命的な出会い・・・

2000年、私の人生で最大の二つの事件が起った。
僕を歌手に導いてくれた (パク)チニョン兄さんに出会ったこと、愛する母を天国へ見送ったことだ。

まずチニョン兄さんとの出会いについて話す。
私は高校3年生の時、ダンスをするアンダーチームに入った。
先輩達と一緒に生活し皿洗いや炊事もしながら公演をして、当時「よく売れていた」ソウル梨泰院と弘益大の前のクラブでも踊りを踊った。

当時、家の事情があまり良くなかった。
商売をしていた父は失敗を繰り返し、家族に「落ち着いたらまた帰って来る」という手紙一枚を残してブラジルに発った。それで糖尿病を病んでいた母が父の代わりに生計を引き継がねばならなかった。
私は体がそんなに悪いのに商売する母を理解できなかった。
当時は私が本当に幼くて、考えが足りなかったという気がする。
両親に不満を持つようになりながら、ダンスをすることに更にはまり込んでいった。

そうしたある日、マネージャーをしていた先輩についていって、ある古びた事務室へ行った。
ところがそこにパクチニョン兄さんが歩いて入って来るではないか。
そこはチニョン兄さんの JYPエンターテイメントの事務室だった。

チニョン兄さんは私を見ると「何をしている方ですか?」と聞いてきた。
私は「私はダンスをしているんですが」と返事し、チニョン兄さんは「オーディションができるようにビデオテープを送ってくれ」と言った。
「わー、god パクチユンを育てたプロデューサーのパクチニョンが私を歌手に育てるのだろうか?」
その瞬間あまりにも嬉しく、私はすぐ帰ってオーディション用のテープを兄さんに送った。