「ありがとうございます」と
「ごめんなさい、許してください」
このふたつの言葉をきちんと声に出して
心から相手に伝えていますか?
「ありがとうございます」は言えても、
「ごめんなさい」は、ちょっと勇気の必要な言葉ですね。
「ごめんなさい」に続けて「許してね」と言えていますか?
感謝の心がたいせつだということは、昔から言われています。
辛いことがあっても「ありがとう」と感謝していると、
感謝できるような状況に変わってくるというようなことも言われています。
謝罪については、小さいころから
「悪いことをしたら、あやまりなさい」と教えられる半面、
欧米の影響で「謝ったら負け」
「カンタンにあやまるな」とも言われ、
「あやまったら自分の非を認めることになるから、
先に謝るな」とも言われたりします。
次第に「謝ったら損をする」という感覚ができてしまっています。
「すみません」という言葉で、謝罪する人も多くいます。
「すいません」は軽い感じの言葉です。
本心から謝罪の心がなくても使えます。
「すいません」と謝罪し「私が悪かった」と認めても
「電車の遅延で・・・」と、
その後に言い訳が続くことが多いのです。
感謝と謝罪
「ありがとうございます」と「ごめんなさい。許してね」
は、人間の深さをつくり、人間関係をつくるパワーフレーズです
本物の人間になるための条件のひとつである
「不完全性の自覚からにじみ出る謙虚さ」は、
人間は不完全であることを自覚し、
謙虚さがほんとうに身について体得されてはじめてでてくるのです。
意識して謙虚であろうとしているときは、謙虚さが弱さになり、
媚びへつらいとなってしまうことがあります。これでは謙虚さもニセモノです。
ほんとうの意味での不完全性の自覚が身につけば、
本物の謙虚さとして出てくるものが「感謝と謝罪」です。
不完全性の自覚から直接的に出てくるものは、謙虚な心です。
その謙虚な心が、具体的に行動として表現されたものが
「感謝と謝罪」の実践です。
人間の本質は「心」です。人間らしい心とは、謙虚な心です。
人間において傲慢さほど醜くて恐ろしいものはありません。
人間は傲慢になったとき、人間であることを根底から失格するのです。
傲慢な顔つき、傲慢な目つきや態度、傲慢な物言いほど醜く嫌なものはありません。
努力して地位を獲得した人間が失脚するのは、すべて傲慢不遜な振る舞いゆえです。
その意味で謙虚さほど人間にとって大切なものはありません。
常に傲慢であってはならないという自覚を忘れないこと。
「謙虚にしなくてはならない」と思っている間は、
謙虚さは、にじみ出てきません。
どんなに努力しても短所は、なくことならない。
自分には短所があることを自覚し、できるだけでないように努力する。
他人の短所は許し、受け入れる。
感謝は不完全なるがゆえに人に助けてもらい、
人のお世話になったときに、命から湧き上がる気持ちです。
人にしてもらったことに対するお礼の行為ですので、案外素直にできます。
しかし感謝という行為には、作為的なものが根底にあることがあります。
「良い人と思われたい」「好かれたい」という気持ちがあり、
感謝には人間の完璧さを意識したところがあります。
心の底から人間は不完全であると自覚したとき、
謝る・許しを請う・許すという行為となるのです。
謝る・許すという行為は、人間の深さに関係します。
不完全性の自覚は、感謝よりももっと深いところにあるのです。
感謝よりも、人間としてのもっと深い行為が、「謝罪」なのです。
感謝は主体が自分です。ひとりでも感謝はできます。
謝罪や許しは、相手が必要であり、自分を捨てなければできない行為です。
「ありがとうございます」は、素直に言えても、
「ごめんなさい」という謝罪の言葉は、勇気が必要です。
さらに「許してください」は、単なる謙虚さではなく、
ほんとうに大変なことをしてしまった
という自覚と深い反省がなければ出てこない言葉です。
「ごめんなさい。私が悪かった、許してね」
という言葉は、人間の深さがないと心からの言葉とはなりません。
「ごめんなさい」だけでは不十分なのです。
同じ不完全性の自覚から湧いてくる謝罪の心こそ
人間における最も深い謙虚な心であると言うことができるのです。
本物の人間になるためには、意識的に謙虚にしようとするのではなく、
不完全性の自覚から、にじみ出てくる謙虚さが必要なのです。
人からほめられたとき
「そんなことないです」「いいえ、私なんかまだまだです」
というのは、謙虚な心からでた言葉ではありません。
ほめられたときは、
「ありがとうございます」と素直に受け取ること。
そしてその後に「おかげさまで」
と言葉を続けることで、
傲慢にもならず、相手にも感謝の気持ちが伝わるのです