前回のお話は、こちらからご覧ください。
前回から少し間が空いてしまいました!ごめんなさい💦。

 

さて。

ぼんやりとした記憶では、私が骨折したのは1998年、1月上旬です。

 

左下腿骨脛骨骨折。
(左スネの、内側の方の太い骨の骨折)

 

折れた足をシーネ固定されて、私は病院で寝ていました。

みんな今頃おいしいお昼ご飯食べてるんだろうなぁ。いいなぁ。

 

まだ13歳ということもあって、両親が来るまでは、

お医者さんとも、けがの度合いや、治療方針等の話し等、一切されなかった気がします。

 

ところが。

 

これ、1998年の長野オリンピックの年。

何十年ぶりだかの豪雪となってしまったのです。

 

<グラフでみるとやばい(笑)。 画像:Yahoo News

 

1998年1月に降った雪の総合計
松本 :107cm(平年の4.5倍)
軽井沢: 97cm(平年の3.1倍)
飯田 : 59cm(平年の3.1倍)

1月15日の最も積もった時の積雪
軽井沢:72cm 観測開始以来(1925年~)の第1位
松本 :69cm 観測開始以来(1898年~)の第2位

1月15日の1日で降った雪の量
松本 :56cm 統計開始以来(1953年~)の第2位
軽井沢:38cm 統計開始以来(1965年~)の第2位

 

長野地方気象台HPより>

 

母は連絡を受け、横浜の家から

この豪雪の年、長野まで来なくてはならなかったのです。

大雪で電車が止まったりして、なかなか到達できない。

 

更には、降りた最寄り駅でタクシーが来ない。

夜中になって、相乗りさせてくれる人を見つけて、

母が病院に着いた頃には深夜になっていました。

 

いや、母上、申し訳ない。本当に申し訳ない。こんなことになるとは。

13歳ながら、非常に肩身の狭い思いをしたのを覚えています。

 

翌日になって父が車で到着。

 

お医者さんの間では意見が分かれていたようです。

A:手術をしてボルトを入れて治す。
B:ギプス固定で治す。

 

ところが父は早とちりして、一人憤慨して

「成長期の娘の足を切らせてなるものか!」と

勝手に私を横浜に連れ帰ることを決定してしまいました。

 

実はこの過剰反応には原因があって、

姉が赤ちゃんの頃骨折して、

足にボルトを入れるとか言うお医者さんがいたとかで

足に一生障害を抱えることになりかけたとかでトラウマになっていたそうな。

 

(でも決定事項じゃなかったんだから、話し合えばよかったのに。)

(有名でいい病院だったのに…。)

 

救急車での搬送はできないということで、

車の後部座席に横向きに座って、

長時間の運転で転院することになってしまったのです。

 

車の小さな揺れでも激痛が走る状態で、

横浜の、Y脳神経外科病院に転院。

 

さて、問題はこの病院でした。

 

シーネ固定から、しばらくして腿下のギプス固定、それからひざ下固定。

そのあと、1年ほどでしょうか(よく覚えてない)、装具をつけて生活しました。

 

<イメージ:こういうやつを長いこと履いていました。 画像:有園義肢株式会社

 

中学校へは松葉杖で通い、

徒歩区間だったところをバス通学の許可を出してもらい、

テニス部では主に見学したり、装具をつけたまま軽いラリーをしたりしました。

 

大好きだったマラソンは、走れなくなりました。

 

ある程度良くなってきて、装具を外してからも、足は細って、

松葉杖はなかなか外れず、どうしても痛くて歩けない日も沢山ありました。

冬になると痛みは酷くなり、血流が悪く、折れた左足は、よく紫っぽくなっていました。

15分の道のりを、3時間かけて帰ることもありました。

 

こんな生活が、13歳から10年以上続くことになるのです。

医者は何をしていたのか。

 

長くなってきたので、それはまた次回のお話。

 

~つづく~

 

本日も貴重なお時間を頂きまして、本当にありがとうございました。

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生活が落ち着いたので、次回はもうちょっと早く投稿できると思います!!
ではでは、皆様ハッピー・イースター❤