5歳の頃、母に魚やさんに連れていかれ、その前の家から聴こえてくる琴の音に魅せられて座り込んでしまったそうです。ドキドキそれから、「音楽家になりたいから、ピアノを習わせて」としつこく頼みこんだのでした。音符私の家にはステレオがなく、近所の映画館から北島三郎だの加山雄三なんかがガンガン流れてくるだけの音楽的環境は皆無でした。音符私は念願のクラシックピアノを学んだものの、楽譜の通りに弾くのが退屈で、窓の外を見ながら即興演奏をしていました。キラキラ子ども時代、クラシックピアニストになりたいと猛練習をしたものの、大人になっていつしか夢は諦めていました。結婚して安定した生活を送っているうちに「本当にこれでいいのだろうか?」といつも自問自答していました。ガーンある日、バンドを組まないかという話があり、メンバーと演奏する楽しさにのめり込んでいきました。何ヶ月が経って、クリスマスの夜ライブを終えて意気揚々ドキドキと自宅に帰ったとたん前夫の怒りが爆発。爆弾「音楽を取るのか家庭を取るのかどっちかにしろ!」と楽譜をすべて破られたのでした.ショック!「このままレールの上を走っていては死ぬ時に後悔する!」とピアノも何もかも捨てて家を飛び出し、バンドのメンバーと仕事を探すために京都の祇園の飲み屋を一軒一軒訪ねて歩きました。そうするとあるホストクラブが「バンドが辞めて困っていたんや!」と就職?が決まり、夜の十一時から朝の四時半まで六ステージ、ホストさんの歌謡曲や演歌の伴奏をすることになりました。チューリップ赤ホストクラブはヤクザ屋さんの経営で一か月に一度親分の見回りがありました。ギターのW君は親分が来ると緊張して顔が引き攣ってしまいます。親分はそんなW君の前に立って「笑え!」と言うのです。又別の日には新米のホストさんが親分に楯ついて親分が烈火パンチ!のごとく怒り「お前、コンクリート詰めがいいんか!事故死がいいんかどっちやねん!」という映画のようなシーンもありました。そんな体験をしながらもずっと音楽でいつか舞台に立ちたい!と願い寝る前には舞台に立っている自分をイメージしていました。晴れ自分のことが嫌いで人とも話せなかった私ですがある日、桜がたった二週間花を咲かせるために暑い中でも寒い中でも生きている姿を見てこんな風に自然に生きていきたいと思いました。音楽にしがみついていた私ですが「たくさんの方々にお世話になってきたんだなあ。。。」と感謝の思いでいっぱいになりました。そのとたんに意識が変わり、仕事も順調に入りとうとう念願の音楽家になれたのでした。ドキドキ世界一の音楽家になりたかった私は「世界一でなくても小さくても遠くても必要とされるところにはどこにでも行こう!」と「十万人とふれあうコンサート」と称して営業をしないで口コミだけで全国、海外五百箇所以上行脚してたくさんの人たちと素晴らしい出会いをしました。音符再婚した夫の矢中鷹光と二人三脚で三百キロの楽器を運んで旅芸人をしていますが、毎日が楽しくてありがたいのです。私たちは「史上最強の夫婦」だと思っています。