再会
昔話
現在、小学校の校長である彼女は、私と知り合った23年前は、高校の教師だった。当時、彼女に、日本人から直接日本語を習う機会などないので、高校の日本語の授業を1コマやってくれと言われ、彼女の勤務先の高校に連れていかれた。私は日本人ではあるが、日本語教師ではないのでいかがなものかと思ったけれど、彼女は日本でアナウンサーをしていたんだから大丈夫だと言った(苦笑)。それに、私はバンクーバーの地元の日系テレビ局でボランティアでキャスターをしていた。仕事から離れて異国の地へ来たのに、気づけばまたテレビでしゃべっていた(笑)。
彼女は授業の冒頭、私の紹介がてら番組のビデオを生徒たちに見せていた。
心境の変化
私は、46歳で発作性上室性頻拍を発症した時、海外どころか国内でも飛行機に乗るのが不安になったし、旅先で発作が起きる可能性があると思うとそれも憂鬱だった。今まで10か国以上訪れてきたんだから、行っておいて良かったじゃないかと自分に言い聞かせてきた。
49歳で、97%の成功率と言われた手術(カテーテルアブレーション)を決意した時、仕事に遊びに旅行に、また元に戻れると期待した。しかし不成功に終わった。失意のどん底かと言えばそうでもないが、手術前を上回る強い発作や、薬を服用しても発作が起きたことなどから、フライトの長い海外はもう無理かなと後ろ向きにはなった。
カナダ人の友人と話をしていて、後ろ向きの気持ちが変化した。バンクーバーを訪れたい気持ちが強くなった。バンクーバーには、現地で知り会った日本人女性もいて、一緒に過ごした時間は短かったけれど、私たちは一生の友となった。彼女をも訪ねたい。
先日、朝日新聞で、記者がガンで余命2年の宣告を受けた自身の経験談を数回にわたり掲載した記事を読んだ。2年後に定年を迎える記者は、将来、好きな執筆業を楽しむはずだったそうだ。まさかという記者の衝撃が文面から伝わってきた。人の行く先とは本当にわからないものだ。
発作性上室性頻拍の手術が不成功に終わろうが、子宮筋腫が変性筋腫になろうが、橋本病がいつ暴れだすか未知であろうが、私は余命を告げられたわけでもなく普通に生活し日々を楽しむことができている。
そう思うと、なんと幸せなことかと思うし、また何か厄介な病気が増える前に、多少の不安はあっても、以前のように海外を飛び歩きたい。そういえば、昔、私は息子が成人したら、少しの間、再度海外生活をしたいと思っていたっけ。
それと、カナダ人の友人が私に会うなり言った言葉、「日本に住んでいる日本人の友人の中で志保の英語力が一番高いけれど、何かしてるの?」意外だった。ここ数年、全く英語は話していなかったし、文章を書くのもクリスマスカードやメールくらい。英語をちゃんともう一度、勉強して、今度会う時は、「何でネイティブみたいになってるわけ?」と言われるよう頑張ることに決めた。私は実に単純だ。しかし、その単純さはなかなか気に入っている。私のポジティブの源のような気がするから。
法律と英語の勉強に勤しみ、旅行も楽しむ。不測の事態が起きたら、それはそれで対処しよう、人生は一度きりだから。
![](https://ssl-stat.amebame.com/pub/content/9477400408/amebapick/item/picktag_autoAd_302.jpg)
![](https://ssl-stat.amebame.com/pub/content/9477400408/amebapick/item/picktag_autoAd_302.jpg)