大学4年の時に書いたレポートを編集して紹介します。

講義では、前期に、「My Antonia(私のアントニーア)」 を購読し、後期にKate Chopin(ケイトショパン )の“The Awakening”「目覚め」という作品を読みました。

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ここから開始
『エドナの女として人間としての自我』

エドナの人生と自我がどのようなものであったかは、Kate Chopinの“The Awakening”が刊行された当時の社会風潮や一般的な人々の男性像、女性像に深い関わりがあるのではないだろうか。

現在では、フェミニズムやジェンダーの考え方が流布され、世の中に浸透してきたということもあり、男や女といった性の枠だけで個人の生き方を固定することは、避けていこうというのが一つの時流となっている。

しかし、ケイトショパンの「目覚め」が出版された19世紀後半においては、男性が男らしく、女性が女らしい振る舞いをし、それぞれの方法で世に処そうとするのは当然であった。

多くの女性に望まれるところは、良妻賢母が示すとおり、夫の言いつけを守り、子どもに行き届いた世話をすることであった。

男性のように、家の外へ出て、仕事をして稼ぎを得るという役割を女性が担うということは、止むを得ない事情がない限り、あまり期待されていなかった。

一部の上流階級の奥方は、お決まりの社交界で、かろうじて社会的な接点を保つことができていたのかもしれない。

だが、そこでも、人々と名刺を交換し、夫の仕事のサポートするという側面があった。

社会の主体はあくまで男にあった。

端的に言うと、女性は夫を立てて自己犠牲的な生き方をしていれば、女性の鑑と称されていたのだ。

自分はこうしたい、ああしたいと思っていても、それが性別の枠を越える望みであった場合、社会的にも、夫にも即問題として取り沙汰された。 

エドナは、まさにこのような問題を抱えた女性として描かれていた。

ただし、問題とはいっても、それは当時の世間の常識という観点で見た場合の話である。

エドナの望んだものはほとんどすべて、人間の原初的な欲求として共感できる。

今では、個人が自由に利益を追求することは、憲法で保障されているけれども、実際は数多くの制限が存在する。

その制限が社会的に編み出されたもので、産まれた時から当然の如く、居を構えているので、多くの人々は疑問を持つこともなく従っている。

ところが、エドナはこの制限がナンセンスだということに気付くことができた、少数の女性の中の一人だったのではないか。

その点でいうと、彼女に絵描きの芸術的な才能がなかったとしても、慣習に縛られて、自由な動きを追求しようとしない人々と比べて、世の中の不可思議さを看破する能力があった希少な女性であったと言えるかもしれない。

しかし夫のポンテリエ氏にとっては、妻の日々移り変わる素行は歓迎されるものではなかった。

彼にはエドナが、何に対して憤懣を抱えているのかが見当もつかなかった。

彼は、エドナとは多少年齢の差があったが、経済力もあり社会的な地位も高かった。

ゆえに、彼との結婚生活は、周囲の凡庸な女性たちにとって羨望の的になっていた。

しかしながら、エドナは夫と喧嘩を繰り返し、枕を濡らすこともしばしばであった。

喧嘩の根幹には、そもそも双方の意識と理解のずれがあった。そのずれを、ポンテリエ氏が理解するのは至難だったのではないだろうか。

ポンテリエ氏でなくとも、とりわけ当時の男性にとっては、このような妻の嘆きが、どこに由来するのかを認識することはできなかっただろう。

物質的な面では申し分のない生活を送っていたけれども、エドナは夫の愛で精神的に満たされるということはなかった。

ポンテリエ氏は、旧来の男性のように、女性であるエドナの役割は、家事をしたり、子どもの世話をしたり、夫の疲れを癒したりするような、甲斐甲斐しい妻であることだとみなしていた。

夫が妻の代わりに稼ぎを得て、その代わりに妻が家の仕事をする、という役割分担が世の慣わしであった。

どちらの立場でも、一筋縄ではいかない部分があるのだけれども、実際に経験をしなければ、お互いに理解をすることは難しいのかもしれない。

エドナは、子供が熱を出していたことに気づかなかった。

そのため、ポンテリエ氏から叱責を受け、涙を流した。

涙の原因は双方の間に、埋められない理解の隙間があるためだということは明白だった。

けれども、恐らく、エドナはまだこの場面では、自分自身でもその悲しみの正体が何であるかは掴めていなかっただろう。

その正体を突き止めてからが、エドナにとっては本当の人生の始まりだったのかもしれない。

それまで彼女は、何かに対して疑問や欲求を感じたとしても、棚上げを繰り返し、自分をごまかしながら過ごしてきた。

そもそも、ポンテリエ氏との結婚を決めたのは、愛情を優先させた結果ではなく、彼が世間的に価値のある男性であったからだ。

少女の時分から、エドナは自分の欲求を臆面もなくさらけ出すのは恥であると思い、それを無理に押さえつけてきた。

人間が生まれてから抱く種々の感情や欲求は、ごく自然なものであるが、それを率直に表明し、満たしていくのには、さまざまな弊害や障害がつきまとう。

それゆえ、しばしば別の手段でごまかすことで、不承不承ながら自分自身を納得させようとするのが多くの人間のやり方である。

エドナの願いは、外部からの制約を一切はねつけ、がんじがらめになった内面の束縛を解きほぐし、完全なる自由を手にすることだった。

「自由の国」と冠せられるアメリカで、外界と折衝を繰り返し、自己の内部を掘り下げ、自分が何であるのかをひたすら探ろうとしていた女性がいたことは興味深い。

社会的マイノリティの女性が、正真正銘の自由を追求していたのである。

現在でも、人種や性別、その他偏見による不当な差別がなされている。

理念として、当時、自由がいくら謳われていたとしても、実際は極めて限定された自由でしかなかった。

最終的にエドナは、思い通りにうまく事が運ばないのは、自分の外側の多岐にわたる障害にあると悟った。

コントロールし難い「他人の思惑」で溢れていたのだ。

当初は、自分自身が一体何者であるかということが判然としないということに、言い尽くせない苦悩の原因があった。

人生に余計な波風を立たせず、平穏無事に生きていくだけなら、周囲の人間と歩調を合わせ、社会のシステムに順応してさえすれば、それは可能である。

一方で、その方法を採用すれば、個人の理想を追求するために欠かせない、主体性を持つ、ということが容易ではなくなる。

エドナは、恐らく幼少の頃からこの主体性を人一倍持ち合わせていながら、やむなく自分の階級に見合う、通り一遍の生活をすることで、自らを満足させようとしてきたのではないだろうか。

エドナは、ある人物たちと接点を持つまでは、自分自身の感情や欲求を発現させることに、知らぬ間に歯止めをかけ、心の奥底にしまい込んでいた。

あまりに長い間眠りつかせてしまったために、それらが希求するものが何であり、本来いずこに発散されるべきものであるかを、自分でも正確に把握することができなくなっていた。

ゆえに、後にそれらが明るみに出されたときも、折よく調節し、操縦していくための心得は彼女にはなかった。

そして、最終的に彼女のやり場のない激情は暴発し、彼女を死に至らしめてしまったのではないか。

では、エドナの偽りの衣を引っぺがし、真実の姿を披露させたものとは一体何であったか。

一つは、ロバートである。

彼は、ポンテリエ氏の夫人であるエドナの御付をしていた。

エドナは、基本的に物事を生真面目に捉える質であり、当初は夫以外の男性に気が惹かれるなど、もってのほかだと思っていた。

しかしながら、自分の筋を押し通そうとし、エドナの心情を理解しようともしない夫に、彼女は安らぎを感じてはいなかった。

経済的には恵まれていたが、精神面では常に渇望の状態が続いていた。

ロバートとエドナを接近させたものは一体何であったのだろうか。

一つには、ロバートが間接的かつ無意識に、エドナのやり切れない思いを解消していたということが挙げられるのではないか。

夫との数々のすれ違い、噛み合わない生活で、エドナの心身は打ちひしがれていた。

夫とは異なり、ロバートはエドナのいうことには何でも従った。

エドナをいたわることがロバートの仕事であったので、当然ではあるが、彼の所作にはエドナに対する愛情が込められていた。

ロバートの愛情を伴う献身、若さと官能に訴える佇まいは、エドナに真に生きていく価値のある、真実の愛と言うものを喚起した。

ロバートを愛しているということが自明になり、エドナは彼を愛するということに生きがいを見出した。

ロバートもまたエドナを愛していた。

しかしながら、ロバートはメキシコで仕事をするという名目で、出立してしまった。

いくら愛していても、夫のいる女性を手に入れることは不可能だとロバートは悟ったようだ。

男女間の甘く切ない純粋な恋物語であれば、エドナとロバートは駆け落ちという手段に訴え、どこにでも行ってしまうことも可能だろう。

だが、ロバートは単なる優男ではなく、官能的な魅力がある一方、エドナと同様生真面目で常識的な青年であり、人妻を着の身着のまま奪い去ってしまおうという強行を犯すことはなかった。

ロバートが、エドナに真の自我に振り向かせ、目覚めさせた張本人であった。

また、彼の他にも自分自身が何であるかをエドナに発見させるためのきっかけがあった。

それは、マドマゼール・リースと彼女の弾くピアノの音色であった。

彼女のピアノから流れ出る旋律は、エドナの内に眠る感情、とりわけ官能を刺激するものであった。

リースは自我を開放しようと欲していたエドナにとっては、憧れに近い生き方を実行していた。

住まいや形振りには、一切とらわれず、他人の視線も意に介しないという態度は、完全に自我を保ち、自身の望みをひたすら実行しようとすることにのみ生気を使うことができる人物特有のスタイルであった。

まさに芸術家らしい、人生の運用の仕方であるが、エドナには彼女のように、周囲の煩雑なものを全て切り捨ててまで、芸術家魂を貫くことはできなかった。

またエドナは、海で泳ぐということを覚えた。

泳ぐためには、指導を受けつつも、最終的には独力で水に浮かび、前に進まなければならない。

エドナは何度も骨を折りながら、泳ぎを覚えた。

肢体を自在に操り広大な、道標もない海を泳ぐという経験は彼女にとって、ただ泳法を習得したという以上の意味があった。

自分自身の真の内なる声に耳を傾け、行動をするということがほとんどなかったエドナが、初めて自分の意思で自分をコントロールするという術を会得したのだった。

第7章P18の最終段落には、

「レオンス・ポンテリエとの結婚は全くの、偶然であった。この点において、運命の思し召しという振りを装う、その他多くの結婚と似ていた。エドナが彼と出会ったのは、彼女が秘密の情熱に高揚している真っ只中であった。彼は通常男性がそうなるように、恋に落ち、申し分のない誠意と熱意をもって求婚してきた。彼は彼女を悦に入らせた。彼の完全なる献身は彼女を舞い上がらせた。彼女は、二人の間には思考と嗜好の共通性があるのだと、おぼろげに思っていたが、それは夢想に過ぎなかった」

とある。

また同じく第7章P19の10行目から13行目には、

「エドナは夫を好きになっていった。しかし、情熱の痕跡や、作られた熱情を欠いているということが、彼女の愛情を彩っているという、説明しがたいある満足感を了解してのことであり、そのために消滅してしまう危険性を孕む愛情であった」

と叙述がなされていた。

ポンテリエ氏との出会いがどのようであったかは、詳述されていないけれども、エドナが彼を深く愛していた、という帰着としての結婚でなかったことは確かである。

エドナは、偶然に条件に恵まれた男性に猛烈なプロポーズを受けたのだった。

ポンテリエ氏の優れたところは、世間的な評価が高く、エドナを養えるだけの十分な財産を有していたことであろう。

それに加えて、何よりもエドナに惚れ込み、その献身的な愛が彼女に束の間の喜びを与えたのであった。

しかし、結婚を決める時点で既に、不安な要素が見え隠れしていた。

ポンテリエ氏はエドナを愛していたけれども、彼女の気持ちに窺いを立て、柔軟に応答をするという姿勢は微塵も感じられなかった。

言うなれば、ポンテリエ氏は、始めからエドナの気持ちをないがしろにしていたのである。

彼女に対しては献身を尽くしていたようなので、当時は結婚の願いをかなえるために、口約束で、彼女を生涯にかけていたわり続けるとは誓ったかもしれない。

エドナも、ポンテリエ氏の求婚をそそくさと受け入れてしまったことは、迂闊だったのではなかろうか。

社会的に理想的な好人物を伴侶とすれば、幸せになれるという一般的な通念が、自分にも当てはまるとエドナは思ったのかもしれない。

しかし、ポンテリエ氏に対して、彼女が悲劇俳優に執心した時に見せた様な、性的魅力を劇的に感じたという叙述はなかった。

ポンテリエ氏と結婚したことで、性的に惹きつけられる異性に、情熱を直接ぶつけるということが、彼女の中で不完全燃焼となってしまった。

そのような恋愛の経験を経ていれば、彼女は夫との結婚生活と自分自身の感情にうまく折り合いをつけてやっていくこともできたかもしれない。

いずれにしろ、エドナが最も望んでいたのは、夫と子どもの世話をしたり、芸術家になったりすることではなかった。

彼女はロバートが欲しかったのである。

言い換えると彼女の人生には、真に愛する男性と結ばれることが必要であったのだ。

夫や子どもを愛しはするけれども、「自分自身の全てを捧げることができない」と言った所以が、そこに存在しているのではないか。

一方で、ポンテリエ氏が日常的にエドナの心情を察し、思いを上手に汲み取り、絵を描くことを許すなど、やりたいことをやらせていたならば、彼女はある程度の幸福は維持できたのではないかとも思われる。

相思相愛で二人が同程度に熱烈な愛情を持って結ばれるというカップルは、それほど存在しない。

そう考えると、エドナはどの人間にも共通する、情熱を傾けるだけに値する異性を愛するという、高邁な理想を追求しようとした、確固たる自我を持った女性だったと言うことができる。

ただし、それは一面的な見方であり、彼女は他にいくつもある選択肢に目を向けることができなかった、視野の狭い女性であったとも指摘することもできる。

当時の女性を取り巻く社会環境を考えれば、当然のことであるが、その事実は今日的な視点で見ればなんともやりきれず、エドナを哀れにを思わずにはいられない。

望みさえすれば、不可能なことはないのである。

世間がどうのこうのという人間もいるが、自由が広がり、色々な考え方が受け入れられるようになってきた。

他人が自分の気持ちに口を出すことはできないのである。

口出しができても、それを変えることはできない。

 

 

 

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