「ホールデン・コールフィールドを追いかけて」 -4ページ目

「 占い」



占いなんて・・・

はっきり言って信じません。星座がどうだの手相がなんだの、あなたの前世は? なに星人だとか、もう「みやた星人」だから関係ないとか本気で思ってますから。

でも自分に都合のいい占いやそんなのは大いに信じます。

こないだ中華を食べたときに出て来た「フォーチュンクッキー」に、


『The small step you take will ultimately bring you great fortune.』


と書いてありました。

まぁ、コツコツやっていけば・・ってことです。

「ultimately」でっせ、兄さん&姉さん。ultimately:ウルトラ ですよね、直訳すると。

仕事でいいことあるのかな?

いいことありますように。

運も才能って誰かが云ってましたよね?

「季節の変わり目のスイッチ」




夏の終わりからー秋へーそして冬の始めへ。

なんかそんなスイッチがカチカチと音を鳴らしなしているような天気のニューヨークでしたが、ついに冬のはじまりになってしまったみたい。





そうなると今まで感じてた「トグルスイッチ」のような上下ふたつのチョイスのようなスイッチ「on-off」じゃない。

1から10までの番号がついたツマミみたいなスイッチになり毎日ひとつひとつ「カチ・カチ・カチ・・・」とスイッチを右にまわすたびに近所の木の色が変わったり、気温が下がったり、雨が降ったりしているような気がする。

あのスイッチはなんていう名前なんだろう?





だんだん日が短くなっていくように音をたててそのスイッチはむしろ勝手に動いているみたいだ。

夕方、近所の公園に行って秋っぽい景色でも撮ろうとおもってカメラを持って出掛けたけど気に入ったのは地面の落ち葉でした。

なんか星空みたいでいいなぁとは想ったけど、冬の夜の空は星がよく見えて好いなんて誰かが言ってた気がするけど本当にそうなんだろうか?


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「1973年のピンボール」




昨日読み終えた、近所の公園で乾いた風に秋茜と同じようにパラパラとページがめくられてしまうように読んでしまった。

この本の不思議さとギコチなさが今の僕の気分にぴったりだった。でも何か自分で見えている分かっているようなその「何か」を探し求めているような『きっかけ」のような物事を読んだ。

読み終えたばかりなのに、もう一度読み直してみようかと今、迷っている。





ここであえて書こうと思うが僕は村上春樹のファンではない。むしろ奴は僕の敵と言っていいだろう。なぜなら村上春樹は僕にことわりもなく「Catcher in the Rye」を訳したからだ。悪いけど僕には野崎訳「ライ麦」との『特別な関係』がある。それは愛読書とか影響を受けたとかそんな関係ではなく僕にとってライ麦は「絶対的な存在」だからだ。

困るんだよ、勝手にそういうことをやられるとね。

まぁ、ここで面白いのは村上が「キャッチャー」を書いたときに「訳者解説」を巻末に収めることができなかったらしい契約書だかなんだか知らないが僕から言わせてもらえばサリンジャーに認めてもらえなかったってことだよ(ざまぁみろ!)。

これ以上書くと僕がAnti-村上春樹ってことになってしまうだろうからこのへ辺りで止めておくけど。





「ノルウェイの森」の前の作品はなぜか未完成のような、むしろ失敗に近いような『?』な部分があって好きだ。最近の村上春樹の本は売れすぎたバンドのように新しい物に挑戦できないような「意識」にとらわれてしまっている気がする。

「ライ麦」はキッチュでいて欲しいんだよ、シュールであっては困るんだよ、分かるかい?

(・・・とココで村上春樹がよく文章につかう「、、、、、、」を文字の下に入れたいのだがパソコンでは無理なのだろうか? アンダー・ラインではなくあえて「、、、」で表現したいのだが、コンピューターで文章を書くって嫌になっちゃうなぁ、ホント)


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勝手にシネマチック



昼過ぎから近所の公園を歩いてとにかくいろいろぶらぶらしながらゆっくりしようと考えたんだけどやっぱりマンハッタンに行こうと思ったわけ。一瞬魔が差して近代美術館に行っちゃおうかなとも思ったんだけど昨日も行ったし途中の駅のユニオンスクエアまで引き返した(終点の57丁目で乗っていた電車でそのまま引き返そうと思ってたら乗車してきたお姉さんに「ここが終点なのよ?」って心配された、英語で「あしからず」って言っておいた、ユニオンスクエアは14丁目なわけ、分かる?)。

ちょっと今日は暖かかったからTシャツだけで出かけのだけど、公園の木は葉っぱが乾燥していて風に吹かれたときにカサカサカサーーって云ってた、やっぱり秋なのか。

空をみたら飛行機雲が2本流れてた。世の中の入り口みたいなのは出口でもあって実はその両方はどうでもいいわけで。飛行機の上から見た海に船がはしっていて白い線が2本流れていたのを思い出した、飛行機雲みたいに。世界は上からみても下から見ても同じなのね、そんな簡単なことにも気付かないでいて今日まで生きてた。ちょっとナルホドって思ったけどバカみたい。


今日から「1973年のピンボール」を読む事に決めた。


前から文庫では持っていたけどこの間ハードカバーのを古本屋で見つけた。ずっと探してた、長かった。





何でみんな文庫が好きとか言うのだろう? 僕には本当に理解できない。ハードカバーの本の紙に印刷された文字は良くみると凸凹があって電車の中で読んでいるときに日が射したり、公園で夕日がちょうどいい角度なときに浮かび上がるその凸凹が切ないとか思わないのだろうか?

ま、さっき書いた飛行機雲のようにどうでもいいことなのかも知れない。

この本に出てくる男は双子の女と一緒に暮らしてるわけ、部屋に帰ってくるといつも待っていてくれる。でも誰でもはじめての恋人は危なかしっくてコッチも落ち着けない雰囲気で、いつも心配かけるようなそんな人たち。

双子の女のコをやしなって寝て一緒に暮らすなんてかなり非現実的だかその話が出て来るたびになぜかそわそわしてしまう、双子の話がこの本のすべてではないのだが。じつは僕にはそんな趣味があるのかも知れない。

僕は本を読むときなるべく自分で「イメージ」した画像を頭のなかに残すように読むようにしている映画のヒトコマみたいな(ほぼ、写真的なスチル)この小説はそのイメージつくりをゆっくりプリント作りでもするようにゆっくり読む。シネマチックな作品っぽく。


勝手にシネマチック。


その画像を焼き付けておくと後で話が訳わかんなくなったときとか、次にその人の本を読んだときなんかに話のつながりや作家の文章の違いなんかが気付きやすくてそれも面白い読み方なんじゃないかと思うわけ。

夜中にベットのなかでつづきを一気に読んでしまおうかと思ったけど、残り3分の1くらい。やっぱり今日も時間を見つけて外で読むことにする。

外で本を読むことは以外に快感、この時期にしかできない小さな愉しさかもしれない。

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「なんちゃって写真評論家」

最近、ヒマなんでいつもギャラリーや美術館に行ってるんです。だいたい週に3、4日間。チェルシーあたりに密集している画廊の小さな個展を一日に5、6コみたり。ミッドタウンあたりの敷居の高そうなギャラリーに行ったり。MoMAとかMetとかそういった大きな美術館の展覧会をじっくり観にいったり。大きな画廊なんかは2つの個展してたり、美術館は5、6コの展覧会を同時にしてるわけですから。まぁ、週に20コくらいのexhibitionを観るようにしてるんですけど。

殆どが写真展です。

それでね、僕は一日中だらだらと見たりはしないので集中して2、3時間で観るようにしてる。だいたいそれ以上になると疲れてしまって観ててオモシロクないし、頭にも入ってこないし。ネタもよく分かんなくなるし。つまり感じなくなるので。

それから、大きな展示とか気合い入ったのを観にいくときはランチを抜いていきます。朝軽く食べるだけ。空腹時のほうが身体が敏感というか、感じやすい。染み込んでいく感じがする。満腹のときはなにか満たされてしまった気がして切り詰めていっている作品などとリズムが合わない。アート作品はハングリーなものが多いから・・ではなく、お腹がスッカラカンのほうが冷静に鑑賞できるということです。

(逆に映画やお笑いなんかはお腹一杯のほうが面白いっていうのは、あるかも。*みやた論)

そこでね、アホっぽいかも知れないけど写真評論日記つけてるんです。個人的な。でもちょっと本格的に。アメリカのギャラリーは基本的にウェブサイトにいけばどんな個展かはもちろんプレスリリースなんかもPDFフォーマットでDLできるし、ちょっとレビューのつもりでメモ帳もって行ってるんです。

画廊に出掛けるとカリフォルニアに居た「画廊時代のみやた」も出てきて、まず入ったら・・・・・・「←・↑・→・↓」と見回すわけですね、照明は?額装は?壁の色は?タイトルは・・・?

このプリントはいつプリントされた? ビンテージ? モダン? 値段は?

この人はアメリカ人? いや違うナニ人? オトコ? オンナ? 何歳? 大学出た? 大学院? 出てない?

それから写真展ですから「写真家としてのみやた」も出てくるわけ。これはインクジェット? それともtraditionalなプリント方式? テク的なことだけではなく「お、このネタは面白いなぁ」とか「こんなこと考えてるヤツいるんだ?」「こんなにデカいプリントは大変だなぁ」「こういう小さいのはいいな」とかなんとか。

(カメラは? フィルムは? とかそんな野暮なことは考えません、それは寿司屋に行って「これはナントカ海のナントカ産のネタでね、シャリはナントカ米のナントカコマチなんでよ」そんなこと言われても分かりません*みやた論)

そうしてメモ帳にちょっと書いて、分かんないことがあったらギャラリーのカワイイけど態度の悪いフロントの女のコちゃんに聞いて、あればstatementやDMなんかも貰って。

帰りの地下鉄のなかでは読む本がありますからそれを読んでちょっとニュートラルな気分にして。アパートに帰ってから軽く書いてるんだけど、ほぼパズル化した自分の書いたコトバを並べて自分なりに理解する行為っていうのも愉しい。

美術館なんかでの展覧会はたまに難しかったりなんかして、政治的だったり、科学的だったり。そんなことはホントは美術館にいってその展覧会の説明を読めば理解できるのがベストなんでしょうけど、そんなに一般教養はないし、英語もわかりませんから。一応アパートに帰ってからネットや部屋にある美術の教科書や写真集で調べたり。それもけっこうオモシロイ。

プロのライターさんなんかはそんなの当たり前なんでしょうけど、僕はなんちゃってレポーターですから。

ホントのアーティストやフォトグラファーなんかはこんなウンチクっぽいことを考えずにフィーリングでピピっと来たことを感じればいいのでしょうけど、まだ僕にはそこまで「写真家の純度」が高くないから。でも「Photography Lover」としての純度は上がるわけ。

そのうちヒマすぎて図書館に入り浸ったり「インタビューさせてください!」とか用のテープレコーダー買ったり、しまいには写真集を買うときに「これは経費でおちるから・・・」とかそんなことを考えだしそうで恐いです(何の経費?)仕事が忙しくなって「もうそんなギャラリー見回っている時間はないなぁ・・・」なんて言ってみたいですけど。実はこれも楽しかったりして。

ニューヨークにとりあえずいて良かったかもしれないです。

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