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しげのゆうこ主宰、ジャズ、ポップス、ボイストレーニングスクール
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しげのゆうこ。ボイストレーニング本
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先月急逝した父の49日のために、大阪に帰ってきました。
あれから、もうそんなに日にちが経ったのか…。

他人の父親の思い出話を聞かされても、
どうしようもナイでしょう
が、
まぁ、ここは一つ聞いてやって下さい。
(もしくは読み飛ばして下さい。)
長文です。閲覧注意。

父は昭和2年、大阪市西区の生まれ。
男ばかり4人の末っ子でした

実家はいわゆる作業着等を売っていた小売り商で、...
当時の小商いの例に漏れず、
祖母も当然の事商売を支えていました
ので、
なかなか父の世話までは手が回らず状態でした。
それでも奉公人や兄達に可愛がられ、
病弱ながらも何とか育ちまし
た。
後の、父のスポーツ音痴ぶりや、
自分の身の回りの事すら何も出来
なかったのは、
こういう生い立ちも関係してるのでしょうね。

旧制高校(旧大阪日商)卒業後、
現同志社の商学部に進学をします
が、
時あたかも太平洋戦争真っ只中。
志願兵を別にすれば、
当時の所謂「赤紙」は誕生日順に来ていたそ
うで、
そろそろ自分の所に来るかも知れないと思った父は、
冥土の土産として、
友達と道後温泉に出征前の旅行をしに行きまし
た。

道後温泉の駅に到着すると、
何やら顔をすすだらけにし、家財道具
を担いだ人達がたくさんいます。
どうした事か?!と、中の一人をつかまえて聞くと、
どうやら大阪が空襲でとんでもない事になっているらしい!

慌てふためいてトンボ返りをして
(と言っても当時の鉄道だと道後
→大阪は7~8時間はかかったそうですが)
大阪の心斎橋に着いた父を待ち受けていたものは、
一面の焼け野原となった大阪でした。
あまりの壊滅ぶりに、
東西南北さえわからず茫然自失になる父。
かろうじて残っていた崩れ落ちた鉄骨を見て、
それが当時のそごう
百貨店だとわかった父は、
一路自宅のある西方を目指します。

当時の様子を覚えてられる方は、
まだまだお元気でご活躍。
こういう風景は昨日の事のように覚えていらっしゃると思いますが


本当に焼け野原の上に、
「こちら○○家、△△にいます。」
「○○です。☆☆をご存知の方は△△に連絡を下さい。」
という立て看板が、
本当にあちこちに立っていたそうです。

戦争中ももちろんですが、
戦後も何年かは食料不足。
食べ盛りの父は、
毎日がひもじくてひもじくて仕方がなかったそう
です。
よく、バナナが高級品で憧れが強かったという話は聞きますが、
父にとっては何より卵こそ宝!
ですから、戦後の物価の優等生と言われた卵ですが、
そのこだわり
は人一倍でした。

物質的に恵まれた時代に生まれ育った私達とは異なり、
物の無かっ
た時代。
鬼畜米英と刷り込まれ、
心斎橋筋にはチャーチルやルーズベルトに
似せられた人形
が飾られていて、
横には薙刀が置かれ、
「一億総玉砕!」と叫びながらその人形を切
りつけ
戦意を高揚させられていた時代。
「欲しがりません!勝つまでは!」
パーマは贅沢品、
野球の言葉に始まりスポーツ全般の用語を
日本語
に置き換えさせられた時代。

こんな時代に育った父が言った言葉。
「自由はええ!
言いたい事を言えるのはホンマに素晴らしい!
どんな偉い人の悪口を言うても
憲兵に引っ張られへんいうのは、
天国やで!」