どもです。
今回は、私の幼少期の事を参考に子育てについて「子ども目線」で書いていきます。
よかったらどぞ
そもそもどんな子どもだった?
は典型的なADHD(注意欠陥多動障害)のため、幼少期は親も大変だったと思います。そもそも「親の言うことが聞けない」と言う特性がありました。
・音楽が鳴れば音に合わせて踊ってしまう
・時間を守る事ができない
・指示の意味が理解できず「思い立ったらすぐに行動」してしまう
・忘れ物も人並み桁外れ ランドセルを忘れるとか
それに合わせ診断は受けていませんが、はこだわりがひどく合わせて以下のような状況もありました
・決めたことはする→靴が可哀想だから靴は履かずに手に持って裸足で移動
(小学)
→自分で決めたことは必ずやる(中高校生)
→17時間勉強する
→3年間人と関わりを持たない
他には、睡眠障害もありました。特に思春期はとても神経質で過集中。おまけにいろんな事が頭の中で騒ぎ出すので寝ている暇がありませんw
学校ではどんな存在だった?
は非常に恵まれていました。まずは、学校ではとにかく「目立ち」ます。どこにいても「私の存在」がバレますw
基本的には思春期を迎えるまでは「とてつもなく明るい性格」だったため、いじめられることはありません。いじめられていても気づくことがなかった可能性すらもあります
あとに書く「家庭環境」があったので、小学校〜中学校までは「特別待遇」を受け続けていました。なので自宅以外での「自尊心」はそれほど失う必要はありませんでした
【特例の例】小中学ともに公立。校長は小中同じ校長と言う幸運
- 授業に出なくても学校敷地内に存在していればいい
- 食事は昼食2食(担任やそれ以外の先生の昼食を譲ってくれる)
- ジェンダー考慮あり制服ではなくジャージ登校可
- 好きな時間に登校して良い
- 毎日の家庭訪問(小学5年時)
地域ではどんな子だった?
地域でも割と「目にかけてもらえる」子どもだったと思います。近所のおばちゃんやおじさん、おばあちゃん、おじいちゃんにも、よく声をかけてもらっていました
直接、嫌味を言われた記憶はなく「あんたは、やさしい子」「あんたは、大丈夫」と言った言葉が多かったかな家族のことも詮索されたり、嫌味を言われたこともありません
小学校高学年になると深夜に家に帰宅するようになるのですが、その時にも食事や寝る場所を提供していくれる家があったり、食べ物を盗んでも内緒にしてくれる人・罰しない人が多くいたので生き延びましたた
あとは、パトカーに乗ったお巡りさんが毎週週末に来ていました
※両親は気づいていません。気づかれたらおまわりさんの役目が終わっちゃう
ここまでで❔マークが多いかもしれません💦もうちょっと頑張って読んでください
実は、警察に通報されています。私に食事や入浴・寝る場所を提供してくれていた方も私の育った環境を知っています。ADHDと関係ない話に聞こえるかもしれませんが、おそらく多いに関係があると思っています。ADHDを持つ子の親は孤独かもしれません。ましてや、生まれて初めて親になる人々にとっては…。
家ではどんな扱いを受けた?
の基本的な行動や性格は前述の通りなので省略します。
は長子です。親も生まれて初めて「親」になったばっかり
とても愛されましたとさ…なんて綺麗なふうには行きません。何しろ「言うことを聞かない」「制御不能」な子どもが初めての子どもなので💦
それでも当初はうまくいっていました。家族が増え私が家族以外の集団生活(就学)を始めるまではそれも徐々に崩れていきました。
父は、仕事で忙しく家事と子育ては専業主婦だった母の仕事となりました。
私が小学校に上がるまでは、躾は厳しい家でしたが、仲がよく4人で寝ていました。
小学校に上がる前に最後の子を出産し母は変わってしまいます。
も赤ん坊に父母を取られたと思いADHDの症状が悪化。より衝動的で攻撃性を持ってしまいます。
結果、母からの暴言・暴力がひどくなり小学3年生の頃には近隣住民にも知れ渡るくらい酷い扱いを受けるようになります。
この頃には、学校や警察(駐在)児童委員の耳にも私の存在が認識され始めています。
ただ、親も落ち着きのない私を自立できる大人にしようと必死だったと今は思います。私自身、当時は直接「親の愛情」を感じることはできませんでした。
だけど、習い事は4つ以上させてもらっていた(させられていた)し、教師が私のことを褒めると喜んでいたように思います。
私の生まれ育った家庭環境自体は「貧困家庭」ではありませんでした。
どちらかというと収入のみで考えると「裕福」な方だと思います。
(受けた習い事)
ほぼ同時期に受けているので1週間休みはあまりありません
- 習字
- ピアノ
- 生花
- 陶芸
- サッカー
- 鼓笛隊(一瞬)
ただ、母親の心身の調子が崩れてしまった。育児ノイローゼも重なった。その結果、8歳から14歳まで体中あざや傷は絶えず希死念慮に駆られる子どもになっていました
子どもながらに「疲れて果てていた」状態。詳細は、あえて伏せておきます
【当時の母の口癖】比較的軽めの内容だけ抜粋
- あんたなんか生まれてこなければよかった
- 全部あんたのせい(天気が悪いのものせい)
- バイキンがうつるから呼吸をするな
- あんたを殺すとと私が刑務所に入られないといけなくなる。家族が困る。自分で死んでくれ
- あんたが死んだら赤飯炊いてやる
- あんたはゴミやクズ以下
子どもの頃に思い描いていた将来の自分の姿は?
基本的に夢や希望は幼少期に持ったことはほとんどありません。何故なら、想像できなかったためです。勉強ができず、学校では明るいけれど自宅では喋らない。自宅では常に緊張している状態なので演技は上手にできました。「涙を流す」が得意技になっていました。
当然、家庭での自尊心など育つわけなく私は大人になったら
「刑務所に入る」か「ホームレスになる」だろうと思っていました。刑務所は大きな犯罪は起こせないので軽い罪を重ねて出たり入ったりするのかなと考えていました。
小学4年生か5年生の頃の話です。年齢にすると「10歳」か「11歳」。すでにその当時には、自宅に帰るのが嫌で万引きをして深夜に自宅に戻るということも沢山ありました
人生の分岐点
私は、家庭環境に問題は多かったものの元来の「明るい性格」と「愛嬌のよさ」で地域社会の大人の方々に大変可愛がってもらっていました。誰一人として私を傷つけようとする大人は近寄ってきていません。誰かが守ってくれていたのか皆に守られていたのかはよくわかりません
最初の分岐点:「高校に進学する」という選択をしたことです。
当初、私は中学を出て自立するために大阪で働いてお金をためNSC(吉本興業の養成所)に入学する気でいました。ただ、父が中卒だったため、私の意向を聞きつけ怒鳴られ「高校だけは卒業するように」との指示が出ました。(父は私に暴力や暴言を傷つけようとして使ったことは今だにありません。)
当時、私は、「刑務所」か「ホームレス」にしかなれない。高校に行く目的や意味がわからない状態で路頭に迷っていました。もちろん学力もなく、どこに合格できないという教師も実際にいました。
そんな中、校長と中学2年次、中学3年次の担任の先生方3名が「この子はやればできるから放っておいて良い」と母に言ってくれたり、「高校に行く目的がわからないなら行って確かめてみたらええんや」と背中を推してくれてました。
結果、誰もが想像していなかった「進学を目的をとした公立高校」に入学をしてしまいますADHDの過集中発動し1日17時間を薬半年くらい実行。小学3年生の計算ドリルからのスタートです偏差値が32から73(5教科平均)まで上がりました
※今思えば、「進学校」を選択した自分はバカでした目的が「高校進学」だったので高校に入ってからは目的がなく落ちこぼれ生活。全然楽しくない高校生活でした
高校では凹凸がはっきり出て文系は偏差値69程度 理数系偏差値30台という酷い有様
二つ目の分岐点:「大学に進学」したことです。
高校が進学校だったため、両親は「公務員にしたい」という思いがありましたが、周りの大人の協力もあり大学へ進学します。名もなき大学(嘘です。一応名前はあります)そこで、4年間好きなことを学び・お金を稼ぐ大変さを学びながら・祖父の看取りをしたりとハードな毎日を過ごしていました。そんな中で徐々に「自信」を取り戻すこととなります。
※学費は一旦公庫から借りてもらい卒業後に返済
三つ目の分岐点:「社会人になった」ことです。
最初の会社は実家を出るため隣の県に就職しました。社会に出ると、周りの大人の人たちが優しい叱られることはあっても理不尽に怒鳴られたり殴られたりすることが全くない世界に感動しました
その頃には、自分の家族以外の人達の家族の様子も理解できるようになっており「幸せ」についてよく考えるようになりました
ということでまとめます
ADHD子どもの取扱いについて
- 放っておいて大丈夫 叱っていいけど怒っちゃだめ
- できないことを責めずにできてることを褒めて
- 学校の先生はおおらかな気持ちで接して欲しい
- どんな親のことでも子どもの前では決してその子の親を悪く言わないで
- やる時はやる子が多いので信じてあげて
- 育児書は読みすぎないで大体どの子も育児書通りにいかないからね
- 動き回る子どもを抑えつけないで自傷行為に走っちゃう子が出るかも
- 障害の有無に関わらずどの子どもも「天才」だと思って接してね
- 子ども幸せと親の幸せを重ねないで
- 親だけじゃ限界超えちゃうから皆んなでちょこっとずつみてね