今回もオウムについてです。

A2 [DVD]

オウム真理教と共にあった森達也さんの伝説的ドキュメンタリー。
Aシリーズの2作目。映画『A2』

フツーの市民でいる皆様。あなたのほうが異常です。映画『A2』

仲良く片付けをする住民と信者たち。
監視してる側と監視される側が一緒になって監視テントを撤去する。
「なんでこんなことやってんだ?っていう。笑」
それを映す、マスコミのカメラ。
「たぶん、これがテレビに出ることはないでしょうねぇ。」
「そうですねぇ。僕もそう思います。」
信者の修行法に感心し、引越しの際には、
「この子たちは大したもんだよ。」と涙ぐむ住民までいる。


事件後、危険団体として注目を集めたが故、却って地域住民や社会との接点を増やしてゆく信者。いやおうなしに、社会と向き合うことを強要される。

そこから逃げ出さない在家信者は、近所付き合いを始める。そこで生まれる地域住民との交流シーンが上記。マスメディアでは、オウムは危険団体としてその特異性を喧伝するが、近所付き合いもできる普通の人としての側面は切り捨てる。

それはそうですよね。観ている側は混乱しますから。
このドキュメンタリー映画の中でも近所のおじさんが言っています。
「(交流を続けて情が移ると)頭の中が混乱するよ(笑)」


監督の森達也さんは、サリン事件後の出家信者の生活を淡々と撮影してゆく。そこで映されるのは、オウム教団の解散を迫る民族派右翼や、立ち退きを求める地域住民、危険な教団という筋書きでしか放送しないマスコミの姿も同時に映りこむ。

オウム在家信者の生活を覗き込むような形で、このドキュメント映画「A2」を観ていると彼らの視点で見えてくる社会の歪みのようなものが浮かび上がる稀有な映画となっている。このドキュメント映画は、オウムの向こう側に透けて見える自治体や警察公権力や、マスコミのおかしな点を容赦なく映し出している点が凄い。そして、軽いショックを受けました。


出家信者は、社会的基盤を捨てており、地下鉄サリン事件後も教団のなかで暮らす。自ら選んだ道だから、そこにとどまる人もいるし、社会には既に行き場がなくなっている信者もいる。

森監督のカメラの前では在家信者の生活はむき出しにされる。表向きのかしこまった姿は無く、生活臭が伝わってくるような道場はどう見ても汚い。信者達にはあまり悲壮感はなく、自分たちの修行をこなすことにしか興味がないように見える。


森監督が地下鉄サリン事件について、親しくなった在家信者に質問をするシーンがある

「麻原からポワ命令をうけたら行うか」
「言っていいんですかね・・・」
「やるんじゃないですか?」
「(ためらいつつ笑顔で)やるでしょうね。言って、まずかったんじゃないですか。怖がれますよね」


洗脳されてロボットのように修行を行うのではなく、自らの信仰を捨てないその姿にはある種の感銘を観ていて受けます。彼らが純粋に見えるのです。

しかし、地下鉄サリン事件から2年経過し、教団幹部から逮捕者が出ている中で、「(ポワ命令を)やるでしょうね」と、真実を吐露する出家信者。反社会的な内面を、あっけらかんと笑顔で話す姿にやはり違和感を感じる。

テロ行為を自身の信仰体験目線で否定せず、麻原の教えが成就する”その時”を待ち修行を続ける出家信者たち。もちろん、修行を続け世から離れてひっそりと暮らす出家信者もいるでしょう。皆さんが全員、”反社会的”信仰だと断言できませんが、やはりうすら寒いものを感じます。


私も反社会的思想をぶち上げていた教団(ザイン)に、かつては出家信者のようにいました。オウムのように拘束も規律も厳しくない教団でしたが、常に”社会”という得体の知れないものを意識していました。オウムの在家信者が見ている(見ていた)社会像が分かる気がします。

マスコミの筋書きありきの報道姿勢にも直接関わり、その歪みも知っています。公権力が間接的に嫌がらせをする姿も観ました。大いに問題はあると思います。政治も揺れており不満があります。

が、しかし。
選択の自由と言論の自由を、曲がりなりにも保障しているこの社会は寛容だと思います。選挙もデモ行進も可能です、楽ではないですが出来ます。
オウムや私のいた弱小カルトでは、教祖の言葉を絶対視して「おかしい」「間違っている」と抑制することが(ほぼ)無理なのですから。

社会には問題は多くある。マスコミもおかしい。公権力はもしかしたら正しくないかもしれない。でも、教団の内部ほどは、歪んでいないのです、そう実感します。

PS
漏れ伝わった話ではI氏批判も圧力で止めたようです、ザインは。過去会員と現会員に小島会長は謝罪をして、社会の中で自分たちの役割をそろそろ確立すべきです、圧力で潰される前に。そのように思います。

森達也監督「A」


森達也監督「A2」