輝くマネージャー | 小林茂子オフィシャルブログ「生きてみよ、ツマラナイと思うけど」Powered by Ameba

輝くマネージャー

私は妊娠5ヶ月

小きんは当時落語界のプロダクションとメディアのプロダクションと2つに入っていた。

落語のプロダクションは寄席に

メディアのプロダクションは少しでもテレビに

2つをつなぐマネージャーとして、デカイ身体を動かすつもりで乗り込んだ。

私は愚息を身籠った時、すぐに男の子と判断される。

喜んだのは、弟だった。

「生まれてくる子供の為だ」

あらゆる所へ連れて行く。

六本木のキャンティやら麻布十番の店

小きんは忙しかった。

稽古する暇もなく、舞台で稽古していた。

寄席の出番をやりくりしてテレビに出ていた。

休日は姉貴に栄養をつけ立派な跡継ぎを産んでもらう。

何もかも充実していた。

当然咄にも艶が出る。

小きんが8年で28人抜きで真打ちが決まったのは、跡継ぎ誕生の喜びが多少影響を及ぼしたかもしれない。

芸に遊びに小きんは、とことん尽くした。

昭和59年3月17日姉は入院。

出産の為だったけど、翌日になっても甥は生まれなかった。

毎日5分おきに病院へ電話する。

つながることはなかったけど、看護婦に「毎日毎日ご主人から電話あります。」

主人はそんなタイプではなかった。

19日ついに出産。

78時間に及ぶ出産。

しかし愚息は迂回点方式を間違えた。

産道で詰まる。

呼吸困難になる。

私の腹に医者が乗り込んでお腹を押す。

突然お腹の医者が「血圧」

あわてて看護婦は私の血圧を計る。

お腹の医者が「違う、俺だ」

お腹の医者は「220:160」という高血圧で私のお腹からストレッチャーで運ばれた。

お騒がせの息子は、医者を入院させ、叔父を寝不足にして私を大量出血させ3月19日午後8時33分この世に生まれ出でた。

看護婦から「生まれました。男の子です。」と聞いた弟は「姉貴よくやった。」

と寝室に消えた。

私の28歳から弟の人生はリンクする。