私の職歴 | 小林茂子オフィシャルブログ「生きてみよ、ツマラナイと思うけど」Powered by Ameba

私の職歴

高校生となり、禁止されていたアルバイトをした。


友達のお姉さんの勤めていた新宿歌舞伎町の喫茶店のウェートレスだった。


今でも片手にお盆を持ち、コーヒー等運べる。

高校を卒業して、ピエール・カルダンの制服に憧れ富士銀行に勤務。

昭和51年退職して、自民党の選挙対策本部にてうぐいす嬢となる。

うぐいす嬢の経験は、12回くらいある。


落選者2名
後は、ほとんどトップ当選


台本はかなりクサい。

「なにとぞ、なにとぞ皆さまのお力で〇〇を国政の壇上へと、お送りください!お願いします。〇〇です。〇〇に皆さまのお力をお貸し下さい。〇〇をお願いします。」

私は終盤戦型だった。

だいたい支援者が運転するのだが…支援者は最終日の後僅かで涙する。


よくわからないが感動するらしい。

当時私は、初うぐいす嬢で自民党の後の閣僚経験者を初当選させた。

とりあえず1回目の結婚。

そろそろバブルの始まり。

私は自民党からまた〇〇を預かる。


この頃選挙対策本部自体を預かり、まだ緩やかなる時代で選挙対策本部には金が舞い踊る。

私は当時いたうぐいす嬢を束ね、若い選挙活動を支える若者を束ね、毎日豪遊した。


結果は落選

それから観光会社に勤めた。

理由は言えない。


離婚。


すぐに赤坂東急にあった当時珍しいカラオケステージの司会者となる。


此処はカラオケステージが自慢で舞台に上がると三方からカメラが捉えズームインした姿とズームアップした姿がステージから見れる。

司会者は入れ替え制で入れ替えの時歌を歌って立ち去る。


すると2番の歌詞から違う司会者がライトで登場。

今思うと恥ずかしい(〃д〃)

そのうちに街にカラオケ店がオープンするようになり私はスタジオ101に引き抜かれた。

私が勤めたのは、六本木のスタジオ101で歌手や俳優が多かった。

やがて改心して、自民党時代の知り合いから大手ホテルのフロントやクロークの受付嬢の所作と礼節を指導する営業3課に配属。


クロークはアルバイト任せなので、かなり教育する。

此処で内孫事件に巻き込まれ2回目の結婚。

此処からは、四代目桂三木助のマネージャーに専任する。

45歳で失業。

51歳で派遣社員としてみずほ銀行…今に至る。