血の系譜(小さんの訃報) | 小林茂子オフィシャルブログ「生きてみよ、ツマラナイと思うけど」Powered by Ameba

血の系譜(小さんの訃報)

一周忌が終わり、命日も滞りなく済んでも私はずっと暗い闇の中だった。

何故死んだのだろう。
どうして死んだのだろう。何を見逃したのだろう。

答えの出ない問答の繰り返しの日々だった。

そんな時、命日に訪れて下さった小朝師匠に息子は『噺家になりたい』と言って困らせていた。
『ケネディ一家じゃないんだから跡を継げば良い訳じゃないから…』と小朝師匠に言われていた。

まさにおっしゃる通り!
私も息子が噺家になる器ではないと思っていたし、当時どんよりしていた愚息である。

生涯ドンヨリしていると思っていた。(ここだけの話しです。)

しかしドンヨリ君はしつこく噺家になりたい!と食い下がる。

5月16日も弟のリビングでドンヨリ対狼が噺家になる!認めない!で闘っていた。

突然母がリビングに仁王立ちになり、電話の子機を片手に『アワアワ』言っている。

無視して話しをしていると『小さん師匠が死んだ!』と言う。

『談志が死んだ』上から読んでも下から読んでも『だんしがしんだ』ならジョークだが、小さんが死んだは頂けない…と思った瞬間『本当なの?』と聞くと母は頷き、その場に座り込んだ。

とりあえず落語協会に電話して確かめると『先ほど亡くなられました!と言う。
母は廊下に座り込んだままだが、私は支度して小さんおじちゃんの家に駆け付けた。

小さんの家に続く裏通りはカメラマンが過ぎ行く人にフラッシュを焚き続ける。
家に入ると一門の喬太郎さんが、真っ直ぐ小さんの枕辺へ案内してくれた。

そこには遺体となった小さんがいた。

私の頭の中に走馬灯のように思い出が蘇る。

年頃の時、叔父ちゃんと歩くと『あっ、あさげだ』当時永谷園のみそ汁あさげやゆうげのCMをしていた。一緒に歩くのが恥ずかしかった。

銀行にもよく来てくれた。
鰻、中華料理、寿司いろいろ食べさせてくれた。

子供が生まれると駆け付け、名付け親だった。

私は一人小さんの枕辺で泣きじゃくった。