:血の系譜 (芝浜への道) | 小林茂子オフィシャルブログ「生きてみよ、ツマラナイと思うけど」Powered by Ameba

:血の系譜 (芝浜への道)

三木助が父の十八番の 『芝浜』 を鈴本演芸場で特選落語会と称して

ったのは、平成11年3月上席(1日~10日)の事だった。

今思うと何故あんなに苦手な時期に 『芝浜』 へ挑戦したのか合点が

いかない。


何を今さら…と思われるかもしれないが私は三木助の落語の部分に

は、あまり触れなかった。


落語会をすると言われれば当時書生のようなチョンというのが愛猫小

太郎共々ウロウロしていたので、チョンを使って独演会を開いていた。


時には私と三木助の間での落語の話は通訳を兼ねたチョンからもたら

される事もあった。


故に私は花粉症で辛いこの時期に何故 『芝浜』 をやったのか未だにわからないのだった。


平成11年は2月から仕事はしないと決め、体調管理のために私は三木助の食事作りに追われた。


三木助は私の作るヒレカツにワンタンスープなら尻尾を振って帰って来る自信があるくらいだった。

他にもポテトサラダやけんちん汁等書いていたらキリがない。

三木助は知る人ぞ知る、果物一切ダメ人間だった。



真相は、また母が握る。


乳幼児の盛夫は熱を出し水分を必要とした。


母はみかんを搾り、盛夫に飲ませる。


喜んで飲むから、どんどん搾って与える。。

しかしものには限界がある。


盛夫は


『もう要らない』


と言えるものなら言いたかったのだろうが乳幼児だから哺乳瓶を避けるしかない。

しかし母は無理矢理口に哺乳瓶を突っ込んだ。

盛夫の反撃はヒキツケとなり病院へ逃げ込むしかなかったのだろう。


以来柑橘系から始まり果物を忌み嫌うようになった。

ビタミンCの足りぬヤモメの弟にはあれこれ考え食事を作る。

この弟の食事作りの際の愛唱歌は決まって


『勝って来るぞと勇ましく、誓って国を出たからは~』


と一番しか知らない、題名も知らない軍歌だった。

この唄の一番をリフレインして食事を作る。

何故この唄か私にもわからない。


今でもワンタンスープとヒレカツは仏壇に供える。


今日このブログを書いていると


『東京の窓から』


に石原都知事と談志師匠が 『芝浜』 に付いて話していらした。

偶然とは恐ろしいものだ。


小林茂子オフィシャルブログ
(談志師匠と私)


それを見ていた愚息三木男にコロッケを揚げながら、私は三木助の死後初めて 


『勝って来るぞと~』 


と唄っていたのを聞いて

『また何か企んでるんじゃないよね』と釘を刺す。

まだ二つ目で紋付を着る機会の少ない愚息には三木柏が背中にプリントされていないらしい。


ブログを秘密にしている私はさっさと自室に逃げ込んだ。