「神人分離」の始まり、奈良の大和神社

金澤成保 

 

 石上神宮から徒歩で天理駅に戻り、JR万葉まほろば線(桜井線)で長柄駅まで行って、駅の南東徒歩10分ほどにある大和神社(おおやまとじんじゃ)を訪れた。石上神社とともに、「上古」の神々への信仰について触れてみたかったためである。大和神社は、天照大神とともに宮中に祀られていた倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ、日本大国魂神とも表記)を遷してお祀りした神社で、国の主要神社である「二十二社」に列し朝廷から特別の奉幣を賜り、9世紀末には伊勢神宮に次いで重視されていた。戦艦大和の守護神として艦内神社に祀られたことでも知られる。

 

「同床共殿」から「神人分離」へ

 人が同じ屋根の下に神を祀り、暮らしをともにすることを「同床共殿」という。「同殿共床」とも記す。今でも神棚や仏壇を自分の家の中に祀るのは、その名残りだろう。天皇即位の儀式である「大嘗祭」では、天皇が「神饌」を神(先帝)に供え、後に自らもそれを食する、その傍らには寝具(真床覆衾)が敷かれている。これは「同床共殿」の古式の復元ではないだろうか。

 

 大和王権では、宝鏡を自分と見なして祀るようにとする天照大神による神勅に従い、宮中に八咫鏡を永く祀ってきた。しかし10代崇神天皇の代になると、疫病が蔓延し国の人口が半減するほどの惨状を呈した。疫病とそれにともなう民の離反と反乱を、宮中で祀っていた天神・太陽神の天照大神と、地方神・農耕神の倭大国魂の神威が強く、両神が合わないことが原因と考えたといわれる。天照大神は、笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせ、その後各地を移動して次代の垂仁天皇25年(紀元前5年)に現在の伊勢神宮内宮に鎮座したとされる。倭大国魂神は、現在の大和神社の初めである長岡岬に祀らせた。神を人が起居する場から離して祀る「神人分離」の始まりである。このことが広まり、各地に神社造営が進んでいったのではなかろうか。

 

 「上古」以前の日本では、社会はアニミズムシャーマニズムを根底に置いた古神道で統治され、の告げる神託が政治的な権威を持つ「祭政一致」をおこなっていたと見られている。「卑弥呼」の時代もそうだったといわれている。崇神天皇以降、「祭政分離」が進み神の神託でことを決する「神権政治」から、人である天皇やその重臣がことを決する「人治政治」へと移行していった。「神人分離」は、神々の神威とそれに対する畏れだけではなく、こうした社会的ニーズの変化が、背景にあったのではないだろうか。

 

大和神社の由来と境内

 『日本書紀』によれば、もともと倭大国魂神は、大地主大神として天照大神とともに宮中大殿に「同床共殿」で祀られていたが、世の中が乱れたり謀反を起こそうとする者がでるなどは、両神の勢いのためであると畏れられるようになった。そのため崇神天皇は、崇神天皇6年に天照大神を皇女・豊鋤入姫命に命じて大倭国の笠縫邑に移して祀ることとし、倭大国魂神は皇女・渟名城入姫を斎主としてこれも宮中の外で祀らせるようにした。しかし、淳名城入姫は髪が落ち体は痩せて祭祀を続けることができなくなった。

 

 崇神天皇7年、「市磯長尾市をもって、倭大国魂神を祭る主とせば、必ず天下太平ぎなむ」と複数の者の夢の中に神託として現れた。そのため、神武天皇の臣で海人族の椎根津彦の子孫・大倭直の祖である市磯長尾市(いちしのながおち)を祭主として、新たに神地が定められ当社が創建された。この当初の鎮座地は、東方の山麓・大市の長岡崎長岡岬、現・桜井市穴師および箸中の付近、現在の長岳寺の位置との説もある)であるとみられ、後に現在地に遷座したとされるが、その時期ははっきりしない。

 

 持統天皇は、藤原京の造営にあたって、伊勢・住吉・紀伊の神とともに当社に奉幣し伺いを立てている。寛平9年(897年)には最高位である正一位の神階が授けられた。『延喜式神名帳』には「大和国山辺郡 大和坐大国魂神社 三座」と記載され、「名神大社」に列し、白河天皇の時代には「二十二社」の一社ともなった。

 平安時代初期までには、伊勢神宮に次ぐ広大な社領を得、朝廷の崇敬を受けて隆盛した。しかし、平安京への遷都や藤原氏の隆盛、永久6年(1118)の火災などにより衰微していき、天正11年(1583)の火災によって神領の書類をすべて焼失し、中世には社領をすべて失ってしまった。明治になると官幣大社に列せられ、新たに社殿が造営されいている。大和国が艦名の由来となっている戦艦大和には、当社の祭神の分霊艦内神社として祀られていた。沖縄への特別攻撃の最中沈没した戦艦大和とその護衛艦の戦没者を祀っている。当社は内陸・盆地にある神社ではあるが、山上憶良も遣唐使の航海の安全を祈っている。

 

 当社の参道社殿とともに、神の山と信仰されてきた三輪山などが連なる大和国山部郡の山々に向け、200mにわたって東向きに構えられている。春分の日を崇めた「上古」以前の太陽信仰の名残りであろうか。

 本殿は、中門・瑞垣で囲まれて春日造り・檜皮葺の同一建物が三殿建てられている。中央本殿に倭大国魂神(大國魂大神)、左殿に八千戈大神(やちほこのおおかみ)、右殿に御年大神(みとしのおおかみ)が祀られている。倭大国魂神は、大巳貴神(おおなむちのかみ。大国主命の別名)の荒魂大地主神(おおとこぬしのかみ)ともいい、八尺瓊(やさかに。玉の意)を御神体としている。

 

          

(写真は、「瀧川寺社建築」のHPより)

 

 八千矛大神は素戔嗚尊の子孫とされるが、大国主命とも考えられ、たくさんの武器を持つ神の意で、戦の神と考えられ、剣を御神体としている。御年大神は、『古事記』では大國魂大神の異母兄弟となる神であるが、春分を1年の始まりとした太陽信仰と関連しているのかもしれない。ちなみに大和政権の最初の「都宮」と見なされる纏向遺跡の居館は、東西軸に整然と並び、後の「都城」がすべて南北軸としたことと、大きく異なる。

 拝殿南側には、龍神・水神を祀る摂社の高龗神社(たかおおかみじんじゃ)が鎮座している。天候、産業、水利を司り、祈雨、祈晴、暴風除けを祈る。古くは、『大倭神社注進状』にも記載され丹生川上神社上社の本社でもある。

 境内社の増御子神社は、小型の一間社春日造り・銅板葺きの建物で、周囲を木製の屋根付き玉垣で囲まれている猿田彦大神と天鈿女命(あめのうずめ)を祀っている。

 

 境内の二ケ所に祀られていた末社三殿を、神殿東側の朝日神社境内を拡張して、一区画に祀ってある。三社とも小規模で、見世棚造り・板屋根の銅板張りで、朝日神社事代主神社は春日造り、厳島神社は流れ造りとされている。

 同じく末社の祖霊社には、大国主命のほか、氏子・信徒の祖霊、沖縄決戦で戦艦大和と運命をともにした大和や護衛艦の英霊が祀られている。大和神社の周囲には、その四方を守るように素戔嗚尊神社が祀られている。