ヤマト王権の始まり、「計画都市」と箸墓古墳

金澤成保 

 

 古来より神聖視される奈良の三輪山の麓は、ヤマト王権の発祥の地とされ、三輪山の西北には、日本初の「計画都市」ともいえる纒向(まきむく)遺跡の宮殿跡が発掘されている。また、ヤマト王権とそれに臣従した豪族の墳墓の様式とされる「前方後円墳」の初期の古墳が築かれており、そのうち最古の巨大「前方後円墳」が、箸墓(はしはか)古墳である。

(箸墓古墳。写真は、桜井市教育委員会の提供)

 

 纏向遺跡箸墓古墳も、卑弥呼の年代と一致すると見られることから、この地が卑弥呼が治めた邪馬台国ではなかったかとの説が提起されている。ヤマト王権の成立期の事績に触れてみたいと思い、纏向遺跡の宮殿跡と、初期「前方後円墳」の纒向石塚古墳、勝山古墳、東田大塚古墳、および箸墓古墳を巡り、関連する資料を展示している桜井市立埋蔵文化財センターを訪れた。地元の人に、纏向遺跡の場所を尋ねると、知らないとのことであったが、30mほど進むと、その遺跡にたどり着いたのには、思いの外であった。

(纒向石塚古墳)

(勝山古墳)

 

(東田大塚古墳)

纏向遺跡の「計画都市」

 桜井市域の北部、JR巻向駅周辺にひろがる纒向遺跡は、初期ヤマト政権発祥の地として、全国的にも知られる遺跡。

(桜井市埋蔵文化財センター)

 

 東西約2km、南北約1.5kmに及ぶような巨大集落であった事や、他地域からの搬入土器の出土比率が全体の15%前後を占め、かつその範囲が九州から関東にいたる広範囲な地域からである事、箸墓古墳を代表として、発生期の前方後円墳が日本で最初に築かれている事、農耕具がほとんど出土せず、土木工事用の工具が圧倒的に多い事等、他の一般的な集落とは異なる点が多く、日本最初の「都市」、あるいは初期ヤマト政権最初の「都宮」とも目されている。

(桜井市埋蔵文化財センター)

 

 「ヤマト連合国」に加わった豪族の代表が、「ヤマトの王」に仕えるため居住していた「都市」であったのではないか。

東西軸に並ぶ宮殿跡

 JR巻向駅のすぐ西、辻地区では掘立柱建物と柱列からなる建物群が発掘され、王権の居館域にあたると考えられている(以下、桜井市纒向学研究センターのHP等を参照)。建物群は3世紀前半ころに建てられたとみられる。このうち、中心的な位置を占める大型の掘立柱建物は、4間(約19.2m)×4間(約12.4m)、高さは10~12mの規模に復元できるもので、当時としては国内最大の規模を誇る。近年実施された調査では、大型土坑が検出され、意図的に壊された多くの土器や木製品のほか、多量の動植物の遺存体などが出土しており、王権中枢部における祭祀の様相を鮮明にするものとして注目された。

(纏向遺跡宮殿復元図。写真は、纒向 ディジタル ミュージアムのサイトより)

 

 手前の二棟の建物は、衛兵の詰め所、宝物庫、武器庫などと推定されている。中心部の建物群は、同じ方向を向き、それぞれの中心線は東西の同一線上に並んでいる。建物の中心線を、東に延長すると穴師山の方向に至り、山から昇った太陽が宮殿を照らす。纏向遺跡の宮殿跡は、規則性のある建築物が「東西軸」に沿って建築されている。纏向遺跡は、我が国初めての「計画都市」であったと言える。

 

最初の大王の墓か、箸墓古墳

 全長280mの前方後円墳(以下、纒向 ディジタル ミュージアムのHPを参照)。『日本書紀』には、倭迹々日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓で崇神天皇のころの築造と記されている。姫命崇神天皇の祖父の妹で、三輪山の神、大物主の妻となった人物。夜しか訪れなかった神は、姫命の願いを聞き入れ朝まで泊まったが、その姿は蛇と化していたという。姫命が驚き騒いだために愛想をつかして神が帰ると、後悔した姫命はハシで陰部を突いて自害したとも伝えられ、そこから「箸墓」と名付けられた。卑弥呼あるいはその後継者とされる台与の墓とする説もある。

 
 3世紀前半の古墳時代初頭に入って、纒向遺跡では纒向石塚、矢塚、勝山東田大塚、ホケノ山などの初期の前方後円墳が造られている。いずれも前方部は小さく、ホタテ貝のように短い。「纒向型前方後円墳」と呼ばれる。これらの古墳が造られた後に、ヤマト王権の地を中心として、その規格や祭式が全国に拡散していったとみられる。

 箸墓以前の最大級墳墓である纏向石塚古墳が長さ90mであるのに対して、箸墓古墳は280m。長さは箸墓古墳の3分の1、面積では9分の1となるが、体積で比較すると実に30分の1となる。ある調査では、動員された延べ労働力を比較すると、纏向石塚古墳が4万5000人(盛り土は1万㎥)に対して箸墓古墳は135万人(30万㎥)と桁違いの大きさとなる。つまり「それまでの30倍の権力の登場」となり、以降、前方後円墳が南は鹿児島から、北は福島県まで普遍的に普及するようになった。わが国最初の本格王権がこの地に誕生したことを物語るとすれば、箸墓は「日本最初の大王の墓」ということになる。
 
 その築造にあたっては『日本書紀』に「昼間は人がつくり、夜は神がつくった」、さらに15kmも離れた「大坂山(二上山)から手渡しで運んだ」と書かれている。多数を動員した突貫工事で壮大な事業であったことを物語っているのだろう。膨大な『日本書紀』の記述の中でも、墓について書かれているのは箸墓だけなのである。
 

三輪素麺をいただく

 箸墓古墳をお参りした後、道路を挟んで反対側にある「三輪山本」のレストランで、この地域の特産である素麺をいただいた。寒かったので、温かいにゅうめんを注文したが、麺は細いが歯応えがあり、出し汁を絡めて、とてもおいしかった。