タイトルは18世紀のフランスの思想家ヴォルテールの哲学的諧謔小説『カンディード』のなかの言葉である。
「己の畑を耕さねばならない」
筆者の解釈では、机上の空論(いわゆる「理想」)ばかりを振りかざしてもなんにもならない。現実を見つめ、行動せよ、というところであろうか。
『カンディード』という物語は、無垢で疑うことを知らない青年カンディードが、始め師のパングロスの「すべてのことは最善の状態にある」という言葉をかたく信じていたのが、さまざまの経験を経て、最後に現実を踏みしめ、とにもかくにも「己の畑を耕」して、不条理な世の中を生き抜いてゆかねばならぬと心に思い定めるまでを描いている。
ぞっとすろような世の中の理不尽をさらりとユーモアを交えて語る個所には、後味の悪さを覚えるものの、どこか作者に同意する心情すら持ってしまう。それに初めは戸惑ってしまうのだが、やがて心地よさ小気味よさすら覚えるようになってしまうのだから、ますます不可思議な作品である。
結局、筆者がこの小説から学んだ教訓は、「この理不尽な世の中を己の力で生き抜け!」であった。本来は、諦念と厭世観ゆえに生まれた作品であろうけれど。
このことからちょっと思い出したことがある。
ドイツの文豪ゲーテの代表作『ファウスト』のなかに、興味深い個所がある。
Im Anfang war die Tat!
文字通り訳せば「はじめに行動があった」である。
これはなんと、聖書の『ヨハネによる福音書』の冒頭部分をドイツ語訳した一文なのだ。
それは普通は、こう訳される。「はじめに言葉があった」
新約聖書はギリシア語で記されており、「言葉があった」の「言葉」は、ギリシア語で「ロゴス」という。
これをあえてゲーテは「Tat(行動)」と翻訳した。
ギリシア語の「ロゴス」は本来、単純に「言葉(Word、ドイツ語ではWort)」と移し替えられるようなものではなく、かなり観念的な力、見えざる神の意志のような意味合いが込められていることもあり、そのようなことから語学の天才でもあったゲーテは「はじめに行動ありき」とあえて訳したのかもしれない。
たしかにもう少し低いレベルのことでいえば、言語にしても「はじめに会話ありき」である。
決して文法が先にあるわけではない。意志疎通のための単純な単語のやりとりがあり、会話があり、それがよほど積み重なって文字が生まれ記録の必要性から文章をつづることが起こる。
やがてそれを分析する文法が意識されるのはずっと後のことだ。
それを思えば、まずは「行動」に等しい「会話」があり、「言葉」としてやや高尚なものとなるのはよほど後のことである。
そのように鑑みれば、ゲーテの「はじめに行動があった」というのは実に穿った訳でもあろう。
我が国では、「案ずるより産むが安し」にどこか通じるものがあろうか。