久しぶりのブログ更新です。とくにお城関係は3か月ぶりの記事となりますが、9月末に登城した続100名城の青森県青森市浪岡町の浪岡城を報告します。
浪岡城は、浪岡北畠氏の居城として、応仁年間頃の第4代北畠顕義によって築城されています。そして、戦国時代において、北畠氏は津軽を三分していた大光寺氏、大浦氏との中でも、最も優勢であったようですが、内輪もめの「川原御所の乱」を経て、勢力が衰え、1578年9代顕村の代に大浦為信(のちの津軽為信)に攻められ、落城しています。
まず、浪岡北畠氏について触れますね。南北朝ファンの方ならご承知の通り、北畠親房、顕家の子孫といわれています。すなわち、陸奥守として多賀国府に入部した北畠顕家に仕えた浪岡右兵衛太夫英種の娘が産んだのが初代顕成と言われます。顕家の死後は三戸南部氏に庇護されていましたが、三戸南部氏が北朝方に変わったころ、浪岡に移ったようであります。(北畠顕家は北方謙三の「破軍の星」の主人公、貴公子然でかっこ良い!)
城の構造は、下記、散策マップの通り、東西1200m、南北600mの敷地で幅10~30mの堀で分けられた8つの館(郭)から成っています。
いわゆる平城ですが、丘陵の南端に位置し、城の南側の崖下には浪岡川と正平津川が流れており、後の写真でもお分かりいただけると思いますが、幅広の堀と川によりしっかりと守られた城と言えます
さて、登城ですが、案内図の番号に沿って説明しますね。
まずは駐車場、手洗い所がある城の西南端の案内所①を訪ねました。
案内所の方から、「雨上がりで足場も悪いから北館側から見学したほうがいいですよ」と言われ、車を北側の道路に移動させ、路肩に駐車して(②のあたり)、いざ登城です。
道路のあたりは外郭だったとされ、元は堀だったと思われる湿地帯にかかる木橋を渡ります。
渡った先は北館(きただて)で、家臣が住んだ武家屋敷町だったと考えられています。写真のように分かりやすく区分けされています。
北館から西へ進み、まさに虎口らしいところ③を通り、木橋を渡って、堀の中央部にあったと思われる土塁を左に曲がって進みます
土塁の突き当りを右に曲がり、またしても木橋を渡り、西館の方面に向かいます。
この堀の中を通っている土塁というか通路は、まったく無防備となるので攻めるのが困難だったことは想像に難くないですよね。④
西舘にはもう1回木橋を渡ります。(写真は内館からの遠景:中央が西舘に向かう木橋)
西舘は何があったか未調査のようですが、結構広いです。
さらに、戻って無防備な土塁を通って、もう一度、木橋を写真手前側に渡って、行きつくのが内館(うちだて)です。
城主が住んでいた本丸のような場所とされます。
写真では判読できないと思いますが、畠山古城跡碑と書かれた石碑⑤があります。
内館を横切り、正門があったとされる南側を降ると浪岡川のそばまで行くことができます。⑥
一方、内館から北館の方を見ると武家屋敷跡がわかるようになっています。
最後に城いき西の端にある検校館跡と見られるところに行ってみました。ここも、未調査とのことですが、石碑がありました。
以上、続100名城に指定された浪岡城報告でしたが、名門、北畠氏の居城で浪岡御所とも言われただけあって、品格を感じさせるゆったりとしたたたずまいの城でした。