今回は、昨年5月下旬に訪れた三重県四日市市西村町の保々西城の報告です。場所は地図の赤丸のところです。
保々西城は、室町幕府の奉行衆であった朝倉氏(朝倉備前守)の居城で康正年間(1455~1457)に築城されたといわれます。朝倉氏は但馬の豪族の日下部氏から出ており、近隣の市場城朝倉氏、茂福城茂福氏、中野城中野氏は同族で連携していたとされますが、1568年織田信長の命による滝川一益の侵攻で各城とも落城したようです。
一方、歴史上有名な越前、一乗谷の朝倉氏も但馬が出自で、家紋(三つ盛木瓜)が同じであることから遡ると但馬時代の同族ではないかと思われますが、分家して離れた両者がともに織田信長に滅ぼされたのは皮肉ですよね。(調べたら但馬の本家も山名氏に従い、織田軍団に降伏しているようです)
さて、攻城ですが、一面、田んぼの中の農道を緑に覆われた丘陵に向かって進み、案内板が見えて車を停めて、いざ出陣です。
小さい川を渡って、まずは看板までと思った瞬間、なんと、小さな渡り橋の上で蛇さんがお迎え。久しぶりの蛇に直面し、若干、われを忘れ、写真を撮り忘れましたが、門番のように、住みついているのかもしれませんね。
入り口付近は公園ふうで東屋もあります。
東屋を過ぎると木の葉がいっぱいで道があるのか、ないのか。ここで最初、まっすぐ進んでしまい、行き止りました。
実はここで、右斜めの方向に入っていくべきで、進むと結構幅広な道にでます。
しばらく進んで、道が広そうなので右折してみると案内の石碑がみえますので、安心できます。
左手が本丸方面で、右手が屋敷跡群とのこと。右折しないでまっすぐ進むと本丸だったようです。
ここまで来たので、まず、右手の屋敷群ですが、しばらく進み、道なりに左折していくとご覧の通り、両側が土塁跡というのはわかりますね。
屋敷跡と思われるところは、すべて藪の中でわかりません。
そのまま、しばらく進むと県立北勢中央公園内の野球場の外野後方に出ます。公園から攻城する方は野球場の外野後方を探すと案内板がありますので、そこから攻めることができます。
一方、本丸方面に戻っていくと、左手に土塁跡のようなものがあります。
さらに進むと左手に堀跡らしき窪みがあります。
窪みがなくなったとところが二の丸的なところでしょうか。土塁がが奥に延びているように見えますね。
そして、両脇に空堀を備える立派な土橋が見えてきます。ここが保々西城、一番の見どころです。堀は現状でも結構、深いので当時はかなりの深さがあった立派なものだったように思われます。
縄で守られている土橋を超えて主郭(本丸跡)に入っていきましたが、藪の中でどのような構造であったのかもよくわかりません。
唯一、井戸跡のようですが、想像力をフル発揮させないと・・・
以上、まったく知られていない保々西城でしたが、意外に立派で土橋、空堀はよくわかるので、近隣あるいは伊勢方面についでがある方は、県立北勢中央公園を目指して、ぜひ、行ってみてください。