遅くなりましたが、昨年11月初旬、長崎市にある俵石城を攻城してきたので報告します。
俵石城は長崎市中心部から車で30分弱の深堀町にあります。
国道から山道に入り、結構、登った行き止りにある善長谷カトリック教会(隠れキリシタン伝承あり)の前に駐車させてもらって登城しました。
教会も高台にあり、長崎湾から外海を見渡せます。絶景ですよね。
そして、左前方にかすかに見えるのが、端島(軍艦島)です。
登城の前日に行った軍艦島(2回目)の写真も少し、紹介しますね。
前回は、世界遺産登録前だったので、観光客も少なく、行動に自由度が高かったのですが・・・
一方、少しずつらしいですが、劣化も進んでいるようで、資金面でも技術面でも難しさがあるとのことで、軍艦島らしさがいつまで維持できるか・・・写真は、なかでも劣化が著しい、日本最古の鉄筋コンクリートの高層アパート30号です。なんと、築100年だそうです。
話を戻して、俵石城、別名は深堀城といい、標高350メートルの城山頂上付近が城跡とされます。鎌倉時代、相模の国の三浦一族であった祖が、その後、和田氏を名乗り、上総伊南荘深堀に居を移して、深堀氏を名乗っていましたが、肥前の国戸八浦の地頭になり、深堀時光以降、この地に在地して勢力を拡大したようです。
当時、新しい土地を得て、その地名を苗字にするものが多かったと思いますが、深堀氏の場合は上総の深堀に行き姓名として、その後、その深堀氏の一族が肥前に来て勢力を持ったことから、領地が深堀と呼ばれるようになったということです。珍しい例じゃないでしょうか。深堀氏は肥前の有力かつ自立した領主として、活躍したようです。江戸時代には鍋島藩の家老家となり、俵石城は廃城にして、平地の深堀陣屋に居住したようです。
戦国時代の深堀氏は、貿易にも力を入れていた(いわゆる海賊)ようで、それなりの資力もあったようなので、俵石城も立派な要害だったと思われます。
それでは、登城報告です。 まず、教会(山側)に向かって左側の階段を登って、道なりに進んでいくと山に入っていきます。教会付近で出くわした地元のご夫婦にお城のことをきいてもぴんと来ない様子。首をかしげながら、「確か、神社を目指して行けば・・・ 」なんて、あいまいな言葉。良くあることですが、「物好きな人だなあ」って感じでしょうか。
ちょっと行くと、左手の山すそに苔むした石垣のようなものが見えます。この辺りまで手を入れていたのでしょうか。
道なりに道標。かなり傷んでますよね。
そして分かれ道。見落としそうなところに道標。山の中に入る道の方向が八幡神社。間違いないでしょう。
あまり人が入ってない雰囲気ですね。無名の山城らしい!
しばらく行き、直線的な登り道、道を示すためか、危ないからかロープが張ってあります。
ロープの向こう側を観てみると竪堀らしく窪みがまっすぐ伸びているようです。が写真ではわかりませんよね。(調べると5本くらい竪堀があったようです)
登りきるとほぼ平らなところに出ます。両方向に道があり、傾いた道標によると左手が八幡宮、右手が東城塁とあります。
事前に調べたところ、俵石城は一つの大きな廓を1周700~800メートルくらいある空堀?で囲んだ縄張りであるとのこと。ここがすなわち堀の部分で堀跡が通路になっているようです。
とりあえず、左手の八幡宮を目指します。
200~300メートルほど行くと鳥居があります。
ここが神社跡かと思いきや、さらに石ころがところどころ転がっている堀跡が続きます。
200メートルほど進むとようやく神社らしい場所に着きます。
神社の裏に回ると城山の表示、ここが城山頂上であり、往時の城の中核だったところだと思われます。
大きな石は持ち込んだのか、守り神のように祀られていたのか。
このようなあまり知られていない城ほど、いろいろと往時に浸れますね。
帰りに東城塁を見に行きました。結構、石垣が残っており、何か砦のような場所だったのかもしれません。
以上、長崎市の肥前俵石城の報告でした。この城は山頂に広大な敷地とその周りに空堀を備えていることからも、深堀氏の実力、財力は相当なものだったと想像でき、魅力十分の山城でありますが、九州の外れにあるために名前を知られる機会がなかったのでしょう。(私も知らなかったです)
史跡にも指定していないなどこのまま名前も知られず、朽ち果てていきそうで本当に残念に感じる山城でありました。