今回は、かなりタイミング遅れになりますが、大河「官兵衛」でも時間を割いて紹介された謀反を起こした荒木村重を官兵衛が説得しようとして、訪れ、幽閉されたことで有名な有岡城跡を訪問したので報告します。



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有岡城は南北朝の時代に摂津の豪族、伊丹氏の居城、伊丹城として、建築されています。「細川両家記」によると1521年には伊丹城に天守のようなものがあったとされており、日本最古の天守があった城と言われています。

そして、その伊丹城は1574年に織田信長の命により荒木村重が攻め落とし、村重の居城として大改修され、名称も有岡城と変更されました。



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なお、有岡城跡には小田原城、大阪城に見られる城下町まで取り込む総構構造の遺構として、最古のものが発見されています。規模としては南北1.6キロ、東西0.8キロにおよぶ壮大な総構えで要所には岸の砦、上臈塚砦、鵯塚砦が配置されたようです。



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それでは、現地の様子を紹介しますね。

JR伊丹駅の西側に出るとそのあたりが、主郭跡として一部、残っています。



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本丸跡のような場所に井戸跡です。2つありました。



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その奥にある石垣跡です。



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主廓を囲む堀だったのでしょうか。



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主廓のほんの一部しか、残っていなかったので、少し歩いて、総構えの北端にあった岸の砦があった現在の猪名野神社に行ってみました。(下記、赤の部分)砦跡だったと思えば思えなくもない雰囲気がありました。



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ところで、黒田官兵衛が約1年間の投獄されていた場所ですが、城の西北で後方が深い沼地、三方が竹やぶに取り囲まれていて、日が差しにくく、湿気が多い場所のようであったと言われます。(わかっていれば素晴らしいのですが・・・)

生涯、不自由な体になるほどの厳しい環境下で、唯一心のやすらぎであったのが、牢獄から見える藤蔓が新芽を吹き出し、花の蜜を目当てに小鳥が飛んでくる光景でした。(大河でもありましたね)

官兵衛はその光景が忘れられず、家紋を藤巴にしたほどですが、伊丹駅前に姫路城から移した藤棚がおかれています。



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それにしても、信長が城を1年近く囲んだという割に、村重自身は尼崎城、花隈城そして毛利領へと逃走できたこともいろんな背景や事情があったのでしょう。また、そもそもなぜ謀反をしたのか?高山右近や中川清秀は途中で離反して信長方になったのか?なぞは多いですよね。

 

総構えも天守も日本最初と言われるくらい壮大なスケールで、いろんな逸話にも事欠かない有岡城ですが、都会の中心部ということもあり、遺構が少なくて残念でしたが、それはそれで、往時を想像して、しばし、楽しむことができました。