今回は、5月の連休に中国地方西部旅行の際、私として、期待して行った城のひとつであった広島県安芸高田市の五龍城跡の報告です。


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五龍城は、宍戸氏の居城であります。

宍戸氏は、源頼朝の重臣の八田知家を祖とする庶流で南北朝時代の初期に宍戸朝家が安芸に移住しています。そして、宍戸氏は勢力を拡大し中興の祖と言われる宍戸元家の子、元源の時代に毛利家と和解し、元源の孫の宍戸隆家が元就の次女を嫁にして以降、宍戸家は毛利家の一門衆となって、活躍しています。

毛利家は両川(吉川家、小早川家)が有名ですが、宍戸氏も一門筆頭格として処遇されていたようです。



毛利元就の頃の主要各家の拠点を地図で示すと下の通りです。

黒のマルが毛利氏本拠の郡山城、宍戸氏の五龍城はその北東1里(4キロ)ほどの赤の星マーク、近隣のライバルだったことはわかりますね。そして、右下方の広島空港のすぐ東の青マルが小早川氏の新高山城、郡山城の北東の島根県との県境付近の茶色のサンカクが吉川氏の小倉山城です。



さて、五龍城ですが、毛利氏の本拠地の郡山城から4キロほどの可愛川(江の川)と本村川の合流地点に突き出した半島状の丘陵に築かれています。

現在、合流地点近くに五龍橋、丘陵(五龍城)下には国道のトンネルが通っていますが、戦国時代の人がタイムスリップしてみたらびっくり仰天でしょうね。




それでは、五龍城に登城しましょう。

縄張図を見てください。半島状の先端(合流地点に近いところ)にある尾崎丸にある宍戸司箭神社への2箇所の参道が登り口になります。



表参道は国道に面していますが、急階段で崩れそうでしたし、わざわざ案内まで出ていたので、裏参道から登ります。



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宍戸の里なんて、いい感じですよね。




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さて、裏参道を5分ほど、山道を登ると宍戸司箭神社がある尾崎丸に到着です。


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この宍戸司箭神社は司箭院興仙(しせんいん こうせん)を祀っているのですが、この興仙は、本名を宍戸家俊といい、中興の祖の宍戸元家の子です。家俊は五龍城の支城の祝屋城や深瀬城を預かった時期もあったようですが、山伏に身をやつし、修行に明け暮れ、修行の末、由利正俊より源義経以来の家伝の法を伝えられ、愛宕の神を信仰して、飛行自由を得、その技は神業とされたようです。

そして、修験道に凝っていた細川政元に側近として仕え、政元の存命時は、大きな権力を持っていたこともあったようです。一方、剣術や薙刀にも秀で剣術は貫心流、薙刀は司箭流と呼ばれ、その武術は後の広島藩の主流となったようです。


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まさか、空を実際、飛んだわけはないでしょうが、このような背景から、きっと地元出身の英雄として祀られたのでしょう。

さて、話を戻して、神社のある尾崎丸から尾根伝いに本丸を目指す感じになります。

まず、現れたのが物見の段。ちょっとした岩山状の高みになっているので、物見ができたのでしょう。



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そしてしばらく尾根伝いに進むと、手すりが無いと怖く進めないくらいの隘路となります。見ての通り、両側が崖の尾根伝い。当時はどうやって、通り抜けたのでしょう。不思議です。


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通り抜けたところが、一位の段で、祠がありました。


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そして、尾根伝いに進むと釣井の段と書かれた看板。


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やや坂を下り気味に向かいますが、前日までの雨で滑りやすく、悪戦苦闘でしたが、井戸があったことは確認できました。


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そして、上方が矢倉の段。戻るのが面倒で道なき道を、泥まみれになりながら登りました。



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上方からの井戸跡。


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次に、三ノ丸。


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二ノ丸。


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桜の段。


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姫の丸。


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そして、本丸です。本丸の先、堀切などが藪のようになって先にいけそうに無く、また、時間も限りがあったのて、残念ながら断念しました。


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縄張図では、来た道以上に段や曲輪があったようで、かなりの規模の要塞だったことがうかがわれます。

そして、同じ道を登城口まで戻りました。

ところで、なぜ、五龍城などとしゃれた名前がついているのか?

宍戸家の城は当初、菊山中腹の柳ヶ城を居城としたが、ここは城としては適切でないと考え、元木山に城を移しました。しかし、用水が足りなかったので、五龍王に歓請し祈願したところ、たちどころに井戸が湧水したので、大変喜び山を五龍山としたようです。

なかなか、楽しい五龍城、登城でした。