昨日、メダカに餌をやった。パクパクと食べていた。

今朝見たら水槽の端で浮いていた。
悲しかった。昨日あれだけ元気に動いてたのに。

「じゃあまた明日!」って言って次の日会えないような気持ち。とても悲しい。

だからこその、次があると思って接したたらあかんなと悟った。

今日の指導が人生最後の指導ぐらいの気持ちで
自分の教室のメンバーには愛を持って指導する。

じゃあまた来週!と言うけれど、仮に、次会えなくてもあの時伝え切った。

悔いはないと思えるくらいの時間を指導中はできるように心がける。


ぼくがもしアルコール依存だとして、しかしアルコールがやめられない。

ガンなのに仮にタバコがやめられない、未だ吸ってるとしたら、


仮に家族であるとしたら、あなたは僕になんと言うだろうか?

仮に大の親友だとしたらあなたは親友にどう伝えるだろうか?辞めろ!と言うだろうか?

いやいや、何を言っても人は自分が変わらないと人からいくら言われても変わらないから何も言わないのか。

これを想像した時の葛藤がわかるだろうか?

僕が心疾患があるのにフルマラソンを走ると言った時の妻はどんな気持ちだろうか?

本人が変わらないと他の人が何を言っても無駄なら何も言わないのか?

事象はさまざま違うが、誰しも葛藤してしまうことだと思う。

これはこれから起こり得ることだと思う。

僕はたとえ相手が変わらなくても言い続けると思う。

いつかは誰しも終わりは来るのだろうけど、それまでをどう過ごすのか。

僕の中で不作為こそ罪だと思っている。
(つまり止められたかもしれないのにただ見ていたという現象)

言いたくないことも、怒りたくないことでも、
自分がどうなりたいのか。ただそれだけ。

相手がどうなるかも大切だけど、そのもっと芯にある部分はそれをする事で自分がどうなるのか?なりたいのか?なれるのか?だ。

やりきりたい。諦めない。信じ続けたい。
そんなところだろうか。僕なら。


辞めたくても辞めれないこともある。

僕も自分の健康にはよくないとわかっていても全力・フルパワーマラソンが辞めれないかもしれない。

運動は体に良いとわかっていても、全く運動しない人に僕は将来なるかもしれない。

それもある。

そして自分の人生だから自分の好きなようにさせてくれと言う気持ちもわからなくない。

仮に僕が50歳、60歳、70歳、、なった時には、誰よりも体に悪いことをしているかもしれない。

その時になって見ないと、それまでの人生の過程を過ごさないと分からないことだってあるのだと思う。

だから、どんな先輩でもどんな後輩でも同級生でも、見た目や今の立ち位置や発言がどうあれ尊敬したい。


だがしかし、自分の命を削るような事をしている先輩や後輩や同級生がいたら僕は本気で正してやりたい。

これからそう言うことが出てくると思う。出てきてほしくないけど。

そこで言わなかったら一生後悔するだろうし、
自分じゃない。


メダカを見ていて思った。


こんな事を思う日もある。