ドゥランドゥエボットーニのブログ

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中学生が思う存分日常を垂れ流すだけです。興味がある人の方が少ないと思いますが、お暇がありましたらどうぞご覧ください。すると私のモチベーションがとても高く跳ね上がります。

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友達に困ることは少なかったし、十分に学校生活も楽しめてたんだけど、昔から思ってた。
私は中学受験して、私立に入ったけど、結局自主退学した。
まずはじめにたぶん、辞めた理由のひとつは不登校になったからで、またふたつは、その学校が第一希望でもなんでもなくて、周りが私立に行っちゃうからって自分も並みになりたくて入学したからだと思ってる。
そんな生半可な気持ちでね、入学したの。馬鹿だよね。
そして、なによりの原因。
かたくなに学校に行かないっと言い張ったはじまりの理由は、自分が人気者になるためについてきたたくさんの嘘が、嘘だとバレてしまったことから。
その嘘は、今考えてるとすごく幼稚で、大人が聞けば笑っちゃうような夢物語。
自分が芸能人だとか、海外で恋をしたとか、なんかのランキングで一位になったとか。
周りがそれを聞いて私を崇めたから、私は鼻を高くして、もっと無理のある嘘を重ねて、最終的に自分の首を絞めた。
嘘がバレて、今まで仲良くしていた友人が私を囲って静かな怒りをぶつけられたとき、私、何も言えなかった。
ただ誤魔化すようにヘラヘラ笑って否定も肯定もしなかった。
授業のチャイムが運良く鳴ってくれて、その場は助かったが、その後の生活を考えると身の毛がよだって恐怖に震えていた。
もう、クラスの大半は知ってるんだろうか。それともあの友人だけなのか。
どちらにせよ、知られてしまってからは私の地位も信用も全部奈落に落ちてしまう。
どうしよう、どうしよう。
授業の内容など全く頭に入らなかった。
そんな様子を怪訝に思ってか、先生が私のことを指して問いたとき、私は同級生の目を感じた。
それは、冷めたような馬鹿にしているような目に見えて、私は怖くなった。
私はそれで、なにも戦うことなく、その翌日から学校に行かないと部屋に立てこもるようになった。
だから私は結局どういうレッテルを貼られたのか、わからないまま。
わからないまま、私は逃げた。
今でも、あの時言われた嘘つきの声が頭から離れない。
友人に気に入ってもらえるよう、お小遣いに友人のプレゼントに費やしたり、おごったり、お金が足らなくなったら親の財布を覗いたりしてまでも、欲しかったのは、言うなれば一軍と呼ばれる友人。
そんなものは、今思えば、自分を飾りつけるためのものでしかなかった。
私はその日にして、物だけの友人と亀裂を作った。
一軍から落ちた自分が惨めで恥ずかしかった。今思うと本当に馬鹿馬鹿しい。
金だけでしか繋がっていなかった友人らに、振り回し振り回されて一喜一憂していた自分は幼すぎた。


不登校中の自分の最初は開放されたかのような、みんなが授業を受けている時間にゲームできていることに愉悦を感じてた。だけどそれも、3ヶ月もしたら飽きる。
だからといって学校に行く覚悟も決まらなくて。だって、嘘をついた上に逃げるなんて認めたかのようなものであったし。どうせ責められる。どうせ居場所なんてない。嫌だ怖い。学校のことを考えると、頭が痛くなってなにも考えられなくなっていたと思う。
学校に行かなくなってから、私の家はさらにおかしさを加速させた。


私の家族はもともと、仲がいいほうではなかった。私が小さい頃もいつも喧嘩をしていて、いつも母親が泣いて、父親が発狂していた。私は幼心から見ていたせいで、もう日常の一体と化している両親の喧嘩をどこか遠目で、それでいて愉快に思いながら眺めるようになっていた。
父親は、子供じみた人で、ひどく目立ちたがり屋なのに、ひどく臆病者であった。
小さい頃は、私がしばらく母の実家に連れていかれていた事に怒り、Гばあばあの子になっちゃえ」なんてはやし立てられ、悲しい気分になったものだ。
だが、それでも私は父が好きだった。
休日は仕事で忙しい母に変わって私をいろいろなところに連れ出してくれた。
故に、同年代より場数を踏んでいた私は、理解を得られなかったことも多いが。
お台場も、青山も、渋谷も、ディズニーランドも、ハワイも、そのほとんどが父との思い出である。
東京の都心に住む私は、父の頼めばどこへでも出かけられた。
電車も飛行機も、ロマンスカーも。
父は見栄っ張りだったから、最上級のおもてなしを求めて、いくらでも金を出した。
ファーストクラスもビジネスクラスも、小学生という若さにして、私はなんの苦労もなくその座に着いた。
だから、私は人を下に見てしまうところがあるのだと思う。
気がつけば人に序列をつけて、強いものには求めるものを、弱いものには冷ややかな笑みを浮かべながら話している。
そんな父親だから、たくさんの経験をさせてもらえた。
だが、我が家はあくまで庶民である。身の丈に合った生活をしなければ、破滅する。誰かが使えば、その他がその分だけ補わなければいけない。
父が満足するためのその分を母親が工面していた。
母という人は、正直よくわからない。
小さい頃、過ごした時間はあまりにも少なくて、母の性質は私には今だ理解できないままでいる。
母は職人のいうものであり、代わりがきかない仕事をしていた。
経営者という立場の人であった。だが、金銭面にだらしなかったようなイメージがある。
今の母にそう尋ねると決まって、父のせいだというが、実際のところ私にはわからない。
幼少期の母は、私を父からのやつあたりから守ってくれていた記憶がある。
父も母が帰ってくると、歯がゆそうに私から離れてくれた。
あとは、体が弱く、救急車を呼ぶほど苦しんでいたこともあった。
たしか、年のうちで三回ほど。
さらに、母親の経営している店が隣家から出火された火に煽られて全焼など。
今思い出すと、母は不幸だったのだろう。
健気そうな笑顔を浮かべて頑張るからねと、自分を励ますのも兼ねながら、私を抱きしめていたような気がする。
いつも泣いていた人だった気もする。
綺麗な髪をボサボサにしながら、一人で声を押し殺して泣いていた。
母については、そんな記憶しかない。

そして、母と父が揃う日曜日が、私は大嫌いだった。
母の起きが遅いと腹を立てる父に怯えて、私は母を恨みながら父をおだてた。
父は決まって、日曜になると出かけたがった。
日曜については、私にある記憶は、台場のアクアシティに行った思い出だけだ。
そんな大それたことした覚えはない。
でもなぜか、アクアシティという舞台の場面の一面だけが思い出せる。
足並みは違えど、アクアシティの立ち並ぶ店の通りを歩いている。
適当に見繕ったレストランで家族三人晩餐を囲みながら、どうでもいい話をしている。
そんな家族にとって当たり前のことが、私には今もこびりついて、とても幸せに感じられて仕方ない。
もうあの時には戻れない、なにもかも変わってしまったと思い知らされる。

そしてそんな父と母は私の不登校をきっかけに、言い争いをすることが多くなった。
全て私が引き金だ。昔もそうだった。
私が行動したことが裏目に出て、両親の喧嘩につながっていた。
私がいなければ、両親はもっと早く互いに見切りをつけられて、人生を謳歌できていたかもしれない。
不登校になってからは、家に妙な緊張感が走るようになっていた。
父や母が帰ってくるたびに私は申し訳なさから身を丸込めて身を隠した。
母はそんな私を見て笑ってくれていたが、父は不機嫌そうに、時たまに気遣うように声をかけた。
不登校は決して楽なものじゃなかった。
責任に押しつぶされることもあるし、なにもかも投げやりにしたくもなるし、泣きたくもなる。常に情緒不安定である。
休んでいればその分だけ自分の細胞は死んで、自分の頭の中から知識が消えていく。
その分、食べるから、脂だけは増える。
日に日に醜くなっていく自分の体を痛めつけたくもなった。
外に出るのも、嫌な思いをするのが怖くて出れなかった。
漫画も、大好きだったアニメでさえも、集中して見れなくなって。
親に甘えて、無意味に怒鳴りちらしたりした。
払うあてもないものを通販で取り寄せたりして、親の金を我が物顔して振りまいた。
自分でもわかるくらいに、自分は人間として終わりに近づいていた。

その時、私と同時期に不登校になったともみという女の子がいた。
彼女は私の小学生の頃の同級生で、卒業とともに引越しをして、一人だけ別の学区中学へ入学した子だった。
彼女が不登校になったのは、彼女の母親の死が多方だろう。
それに彼女は途方に暮れていた。
不登校になる前から、ブツブツともらしていた。入学した学校には、知らない子しかいない。馴染めない、と。
私はその時、クラスをまとめられるほどの力を持っていると浮かれていたので、安っぽい応援を送った覚えがある。
その立場になってみないと、わからないことってたくさんあると思う。
ともかく彼女は、いつも自らの意思を押さえつけて学校に通っていたことは間違いだろう。
そんなギリギリなふちを頑張っていたところ、母の死という衝撃的なことが起これば、不登校になるのも仕方ないだろう。
だから彼女の父は、なにも言わなかったらしい。
そして、不登校同士、常に暇ということでよく私とともみは遊ぶようになった。
行くところすべててで彼女は大金をいとも簡単に出しはじめた。
たぶんそれは、母の生命保険で降りたと思われるお金であろう。
彼女は、子供には似つかわしくないようなブランドショップに入って、高いバッグを衝動買いしたりしていた。物で満たすことしか、彼女にはできなかったのだろう。
そして私も、そんな彼女の姿を見て、身を乗り出して金を漁るようになった。
友人のために、また私は金を使う。
親が私のためにくれた金を、くだらないものに使う。
私は、なにか絶望していたのかというと、そうでもない。私はそんな辛い思いなんてしてない。甘えてるだけ。屑なだけ。終わってるだけ。
でもともかく、なんでもいいから、なにかを欲していた。

しばらくして、私は母がまた泣いていた。私が不登校になったからだろうか。
おどおどしながら、母に声をかけると、母の目が血なまこになっていることに気づいた。
そして母は涙ながらに、お金がないの。と言った。
私は何も言わなかった。
母はまた続けて、お金がなくなったの、なんで。と私の腕にしがみついて、おいおいと泣いた。

私はなにも言えなかった。そのお金をとったのは自分だと言えなかった。
怖かった。母に嫌われるのが怖かった。
友人に見放されて、周囲を落胆させて、それでも私をなだめてくれた母が、私を嫌ったら、そんなの怖すぎて。
ただ心の中で謝り続けるしかなかった。
私はそれから、金を求めるのをやめた。
やめたかった。
だけど一日暇をしていると、暇をつぶすためにすることは大体金がかかる。
いつしか、罪悪感は薄れ、私はまたともみを誘って、また下らないものを買って、満足していた。
でも、帰るとすぐに、ひどい自己嫌悪に陥って。
それでもやめられなかった。
私は本当に屑でしかなかった。



それで私がいかにして、不登校から脱したかと言うと、ある目標を見つけたからだった。
それは高校留学だった。だが、不登校の上に英語の成績は良くない。
そんな選択を選んだのはこの環境から逃げられるということからだろう。
不登校をしているこの生活は嫌だけど、学校に行くのはもっと嫌だ。
なにもかも忘れて、誰も知らない場所に行きたい。
そんな気分だった。
だから、遠い遠い場所を選んだのだろう。
親はそれをきっかけに私を奮い立たせて、区立の学校への転入をすすめた。
私はもう、留学をすると意固地になって、強い決心のもと、誰も私を知らないはずの学区外の中学へ転校した。
私立を退学しても、なにも口惜しくなかった。




そして同時に、父と母は離婚調停を終えて、離婚した。
なにも悲しくなかった。世間体も気にならなかった。私は母について、母と生活している。
父と久々に会うとき、そして別れるとき、父のその後を思うといつも涙が出てくる。
父を捨てた自分は、父が報われるよう願うしかない。
そして母にも、幸せになってくれるよう願うしかない。
私はなにもできない。ただ負担になっていくだけ。
私はまだ十代の前半。
だけど、人より少しだけ多い経験をしたはず。
だからいつか、一昔前の自分を認められるほど優しくなりたい。
もう一度、母と父が仲良く過ごしていて欲しいなんて思わないけど、大人になっても、この時の私の思い出を忘れないで欲しい。
今は、怒鳴られたことも、物を壊されたことも、嫌味を言われたことも、家族三人で手を繋いで歩いたことも、全部幸せだったと思えるよ。




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