最近思うんだけど、
今いろんな人がいろんなものを
「整えよう」としてるんじゃないかなって。
サウナでも、「整いました」って言うし。
家も、どう「整えるか」について学びたい人たくさんいるし
子育てにしても、
「丁寧な子育て」とかを目指してる感じあるし
自分のことにしても、
「マインドフルネス」とか「ウェルビーイング」とか
自分の心を「整える」ことが大切とされてるよね。
ちなみにサウナで言う「整う」と言うのは、英語で言うと prepare for~ とか arrange とか、どちらかというと「〜の準備をする」という意味で使われるから、「精神と身体を落ち着かせる」と言う意味合いが強いと思うんだけど、
家を整えるにしても、子育てや自分のウェルビーイングを大切にするのにしても、やっぱり、みんな「心のざわつきを無くしたい!」と思ってそれを消そうと努力しているような気がするんだよね。
でも思うの。
この自然界、ある程度の法則はあれど
そんな整ってるかな?
「無理に」整えようとしてるのって、人間だけじゃない?
そして、人間には、「感情」っていうものが素敵なギフトとして備えられていて
それが人間とロボットの決定的な違いで、どんなにレベルの高いロボットを作っても、AIでパターン化させても、人間ほど複雑で込み入った感情を持つことは不可能だと思う。
その心の複雑さゆえにー整わない心ーの故に、人間は様々なものを生み出してこれたんじゃないかな。
芸術にしても、発明品にしても、整っていないものがあったから、それを表現したり、何かを生み出したりというクリエイティブな活動ができてきたんじゃないかと思うんだよね。
そして、なんで今日本からそういうのが消えてってるかというと、
やっぱり、「整えよう」としすぎた結果なんじゃないかと。
平で何もない道を毎日歩いていると、思考停止して、何も考えずにその道を歩くようになるけど
毎日途中で鹿が出たり猪が出たり、いろんな石ころが転がってる道を歩いて行ってたら、常に何か考えて歩かないといけないのと一緒で
日常が整っていれば整っているほど、思考が働かない人間を作り出しているんじゃないかな。
心が整っていれば、さまざまなことが起きても、動じずにいれると思うかもしれない。
だけど、見た目動じなくても、思考タイプの人間でも、誰かの死や、トラウマ的体験や、自分にとってとても辛いこと、悲しいことが起きたり、体に不調が起きたりした時、ロボットみたいに、ここをこう修理すればこういう風に心を整えることができるよ、なんて
人間はそんな簡単な生き物じゃないよね。
だから、本当に心から言いたいんだけど、
無理に物事や人、自分の心を整えようと頑張らなくてもいいんじゃない?
誰かに対してモヤモヤする心抱いたり、言い合ったり、歯車がずれて関係修復がどんどん難しくなっていったり、それで苦しんだり、解決できずに漠然とイライラしたり
そういうのを無理やり消そうとするから逆に苦しいんだと思うんだよ。
そういう、誰に教わったでもなく湧き出る感情を、
人間として「受け入れること」
そこがまずスタート地点なんじゃないかな。
汚い感情出てきても、いいんだよ。苦しむプロセスがあってもいい。むしろ、それがないと、その先に「希望」が見出せない。
苦しみがあるところには必ず「希望」がある。
今自分に苦しんでいる人、周りの環境で苦しんでいる人、抜け出せないように感じている人は
誰かを責めたい気持ちも、自分を責める気持ちも無理に押し殺さずに
言葉に出してみて。苦しいんだって、言ってみて。その、怒りの奥に、どんな苦しみを感じているのかを、問うてみてほしいです。
そういう苦しみも汚さも含めた人間らしさを出し合うことが、結果的には人間の良い面を互いに見つけることができる世の中につながるのじゃないかな、なんて今日は考えていました。