先日、清塚信也さんとNAOTOさんの講演を見に行きました。

 

清塚さんのコンサートは約3年ぶり。

 

あっという間の2時間半でした。

 

音楽講演や美術鑑賞、スポーツ観戦など、時を忘れて感動する時間って、意識しないとなかなか取れないですよね。

 

別に、お金をかけてわざわざ見に行かなくても、何かを深く考えることなく、ただ感動できることが大事だと思うんです。もっと言えば、別に特に感動しなくても、何も考えなくていい時間。

 

山登りだったり、散歩だったり、ただぼーっと座って景色を眺めるだったり、寝そべって雲が流れるのを見るだったり。

 

前回、アウトプットのない学びについて書いた時は、学んでもアウトプットしなければ成長はないと言いましたが、インプットアウトプットをするばかりでもいけないんだなと改めて思いました。

 

最近では、マインドフルネスという言葉も少しずつ浸透してきました。

 

マインドフルネス自体は、意識的に『今』に集中する練習が必要なのですが、そもそもは仏教における瞑想がベースになっていると言われていて、

有名な企業家など、社会的成功を収めている人は積極的にマインドフルネスを取り入れている人がたくさんいます。

 

昨今の情報社会に生きる中で、過去や未来や他者からの評価にとらわれずに生きていくことはとても難しく、このようなものに囚われて生きていると、質の高いパフォーマンスを実現することも難しくなります。

 

そして、マインドフルネスに限らず、人生に余白がなかったり、つまり、何も考えなくていい時間がなくなればなくなるほど、人間の想像力や創造力は低下していくのではないかと思います。

 

戦後の高度経済成長期、日本では沢山のモノが生み出されました。

 

部品を海外から仕入れ、新しい発明品として世界に発信していく力がありました。

 

モノづくりや農業など、クリエイティブな要素を多く必要としていた時代から、コミュニケーション能力を主体としたサービス業に時代がシフトする中で、時間を切り売りし、人からの評価を基準に対価を得るようになってきました。

 

サービス業では、形がないものに対して対価をもらうため、人の期待値に準じてサービスの質も向上していく必要があり、かといって、それに払われる対価には限度があります。

 

そのため、どんなに質の高いサービスを提供しても、善意の搾取が起きてしまう恐れがあり、それが繰り返されてきた結果、心がなくてもとりあえずサービスに準じていればいい、という空気も蔓延し、「人として」とか、「人間だからできること」が見失われつつあるのではないかと思います。

 

これからの時代、10年後、20年後、サービス業の多くは機械に置き換えられます。

 

銀行で窓口対応するのも、離婚調停で弁護を頼む相手も、レストランで食事を運んでくるのも、人間である必要がなくなっている時代がすぐそこまできているのです。

 

音楽の演奏や物凄く精度の高い芸術作品も、人間でなくても作り出せるかもしれません。

 

だけど、そこに人間が感動を覚えるかというと、やはり、相手が生き物だからこそ感じる感動は、普遍だと思います。

 

正しいコードの演奏はできても、観客の顔を見て、空気を感じて、それにまた心で答えるというライブの臨場感というものは、ロボットや機械には置き換えられないと思います。

 

人間にしか感じられない感情のやりとりや、ある意味一見無駄なこと、無意味な時間などをも愛おしむという行為自体が、人間が人間らしくいられる要素なのかなぁとも感じます。

 

毎日忙しく、効率性を求め、質や学力、生産性の向上を求めることに心がとらわれると、いつの間にか機械レベルの想像力しか浮かばなくなってくるのかもしれません。

 

人生に「余白」を持つことを意識することで、人間らしさを保ち、人間にしかできない何かを生み出したり、心動かされる体験をしたり、優しさや愛情を他人に対して抱くことを覚えたりできるのではないかと思います。