スタジオシフトの深澤竜也です。

歴史大好きな私・・・久しぶりの歴史もの・・・

龍馬伝の時ですから、2年前の日記の再アップです。



歴史が好きな女性が増えていますね。

中でも坂本龍馬と真田幸村の人気はすごいですね~。

真田幸村というよりも真田一族は武田信玄と密接に関係があるのですが、今回は置いておいて・・・。

今日は、私の尊敬する人物に書いてある「坂本龍馬」のちょっと知られてない

部分を紹介いたします。


龍馬の略歴については、皆さんご存知だと思うので。ざ~~っとね!

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幕末の志士。

土佐国(高知県)郷士坂本八平の次男に生まれた。

*当時土佐では、関ヶ原で徳川方についた者を上士、石田方についた者を郷士として、差別階級がありました。龍馬は下層階級の産まれで差別を受けて育ちました。


実名は直柔(なおなり)、後に変名で才谷梅太郎(さいだにうめたろう)などと偽っています。

本家は富商才谷屋で、領知197石など家産があり家は裕福であった。(この商家で養われた商才が後に日本を変える事になる)

幼少時愚鈍の評があったが、日根野弁治道場での剣術修行でたくましくなった。

その後江戸に出て北辰一刀流千葉定吉道場に剣を学び、息子の千葉重太郎、娘の千葉さな子とはここで出会うも、一年余で帰国。

ふたたび江戸に出て剣技を磨き、剣士として知られ、北辰一刀流の免許皆伝を得る(実は薙刀の免許皆伝のようです)。

再度帰国。

武市半平太により土佐勤王党が結成されるやこれに加盟。


江戸で異色の幕臣勝海舟を訪い、その見識に感激して入門。


勝の主唱による神戸海軍操練所の設立に東奔西走、その塾頭となったが、勝の突然の失脚によって、操練所は解散された。

この間、龍馬は越前藩主松平春嶽、横井小楠、三岡八郎(由利公正)、大久保一翁ら開明の人士らの知遇を得、西郷隆盛とも知り合った。


操練所解散後、龍馬は薩摩藩の保護を受け、同志を率いて長崎に日本で最初の会社である亀山社中(後の海援隊であり三菱商事の元になる)を設けて通商航海業に乗り出す。

これを媒体として倒幕のため薩長2藩を同盟させる運動に奔走、中岡慎太郎と協力して薩長同盟を成立させた。

その直後、寺田屋で幕吏の襲撃を受け、寺田屋の養女お龍の機転で危うく難を免れ、お龍と結婚した。

薩長同盟の成立は幕府の長州再征を失敗に導いた。


土佐藩が貿易のため長崎に設けた土佐商会に出張してきた参政後藤象二郎(かつての土佐勤王党の弾圧者)と龍馬は会談。

後藤とともに藩船で京都に向かう船中で龍馬は、大政奉還、公議政治などの新国家構想をいわゆる「船中八策」としてまとめる。

これが土佐藩論を動かし、山内容堂は将軍徳川慶喜に大政奉還を建白、慶喜はこれをいれて朝廷に奉還。

朝廷はこれを許可し大政奉還は実現し、二百年続いた徳川幕府は終わりを迎える。

その後も龍馬は奔走し、新政府の構想を練っていたが、11月15日夜、京都の下宿近江屋(おうみや)で中岡慎太郎と会談中に襲われて倒れた。

享年33歳。


33年の生涯だったけど、かなり省いた略歴を書いてもこれだけの量になってしまいます。

幕末にこんなに大仕事をやった龍馬だけど、実は明治維新の時はあまり世間では認知されていなかったのです。

明治16年高知の土陽新聞に連載された「汗血千里の駒」の主人公として描かれ、それが人気となり日本中に知れ渡るようになったのです。



さて、ここで一つ大きな疑問が生まれます。

一郷士の龍馬が、幕末の大物達と交流をできたのか? 

こんな仮説があります。一部事実ですけどね。

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織田信長を本能寺の変で討った明智光秀の家紋。

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龍馬の家紋です。。

桔梗の紋が一致していますが、実は龍馬は光秀の甥で明智家の武将であった明智秀満の子孫です。


このため家紋が光秀と同じなのでしょう。

この説では、この明智の家系を武器にして、幕末の大物と同じ席につくことが出来ていたと推測されています。




龍馬が明智の子孫を意識していた言葉があります。

●坂本龍馬「世の人は われをなにとも ゆはばいへ わがなすことは われのみぞしる」(京都国立博物館蔵の坂本竜馬筆の書) 

●明智光秀「心知らぬ人は何とも言わば謂え 身をも惜しまじ名をも惜しまじ」(細川家家譜『永源師檀紀年録』、『明智軍記』)


これは龍馬が明智光秀の言葉を引用したものとして伝えられています。



真実はわからないですが・・・この家系が龍馬暗殺にも繋がるという説もあります。



さてガラリと話しは変わり、龍馬の恋話

龍馬の妻は、寺田屋の養女おりょう(龍)ですが、それまでに何人かの女性を

その気にさせていた節があります。

まずは土佐時代、坂本家が仕えていた平井家・上士の娘・・加保という恋人がいました。
上士と郷士、一緒になれるはずもなく、加保は京の身分の高い家へと嫁ぎますが、その後も密通して幕府や朝廷の動きを伝えていた可能性があります。


そして寺田屋の女将、お登瀬。

龍馬をいつもかくまっていたお登瀬は、龍馬に恋心を抱いていた節があります。
後世に伝わるお登瀬の言葉の中にも、龍馬への想いと思われる言葉が残っているようです・・・確認はしていませんが。



そして千葉道場の娘、千葉さな子。

さな子は龍馬の許嫁であることを、明治の時代になっても訴えつづけます。

晩年を私の故郷、山梨県甲府市で過ごし、清運寺という寺にお墓があります。

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甲府には千葉さな子を偲ぶ会があり、

高知と山梨の剣道の女子交流試合、「千葉さな子杯」も行なわれています。

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そして、ここにその証拠が記されています。

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「坂本龍馬室」

生涯、龍馬の事を愛し続けていたのでしょうね。

このお墓をお参りに来る方・・・龍馬ファンがほとんどでしょうが、かなり多いのですよ。