スタジオシフトの深澤竜也です。



今日、6月8日は父の82歳の誕生日です。



プレゼントは大好きな日本酒。


年老いた・・・ほんと、この一年の間だけでも、そう感じます。

耳は遠く、呂律も回らず・・・記憶も少し曖昧です。

父の事を考えた時、やはり私は親不幸をしていると感じてしまいます。



父は昭和4年、着物問屋の長男として産まれました。

家は古くから商売をしており、駅でタクシーに○○(うちの屋号)といえば、

住所も言わずに送ってくれたという家。

女中さんが5人いるような家のお坊ちゃんとして育てられました。


幼い頃からガキ大将で「猛者」と呼ばれ、スポーツは万能。

勉強もそこそこできたようです。

旧制中学に入学し、甲子園を目指すも、戦争が始まりました。

空襲で私の家も全焼してしまいましたが、命を落としたものがいなかったことが救いです。

昭和20年8月15日、戦争が終わりました。



そしてあらためて甲子園を目指すようになります。

4番キャプテンとして、チームの中心であった父の活躍で山梨大会を優勝。

静岡の代表チ-ムと甲子園をかけて闘うことになりました。

父のチームが静岡に行き、そこの民宿に宿泊。

夕食で出たサバが腐っており、翌日にはチームの大半が食中毒で試合にでれない状態・・・今では考えられない、アウェイの洗礼でした。

エースは食中毒で力がでない中、最後まで投げきったそうです。

ただ・・父は・・サバなんか喰いものじゃないと言い(お坊ちゃん)

食中毒は逃れたそうです。

試合は11対6で敗れてしまいました。

今だったら、静岡の野球連盟は責任を問われ、再試合になるでしょうね。

$スタジオシフト代表 深澤竜也のブログ



写真は当時のものです。

この当時この学校には、後のサンリオの創始者や山梨日日新聞の会長、大物がそろっています。



旧姓中学を卒業後、当時大人気だった東京六大学野球の法政大学に進みます。

大柄な選手が多い中、多少の活躍はしたそうです。





その後、プロへの道はあきらめ、築地にある大手水産会社へ入社。

マグロが一体入るだけで、自分の懐には現在のお金にして30万ぐらいはポケットに入ったそうで、毎晩のように銀座で豪遊していたそうです。

その会社にいる時に母と出会い、東京で新婚生活。

姉が産まれたのは東京だったそうです。



長く東京にいましたが、地元の商家の長男。

家に呼び戻されました。

しかし、戦後の商売環境は一変しており、昔の大店という状況ではなかったと言います。

少しづつ土地を売りながら、商売を続けて、私と姉を育ててくれました。



そんな父は、私と妻の結婚を本当に喜んでいました。

保健や医療、老人介護に詳しい妻は、すぐに父母と仲良くなりました。

妻と私が喧嘩した時などは、妻と父母連合対私という図式になり、いつも私が謝ることになっていました。


だから・・・妻が突然死した時の落ち込みようは、妻を亡くして落ち込んでいる私からみても酷いものだったです。


そして妻を亡くして4年後、母が階段から転落し、圧迫骨折のために身体障害者になりました。歩くことはできるけど、階段の上り下りは困難な状態。

そしてその2年後、今度は父が脳出血のために左半身不随になってしまいました。

そう、この頃の私の家庭はメチャクチャでした。





少しは落ち着きを取り戻した今、孫に囲まれて賑やかに生活できるのも幸せかもしれませんね。


でもやはり私は、親不幸者には変わりありません。